落合 直亮
人物情報
別名水原二郎
生誕文政10年8月26日(1827年10月16日)
武蔵国多摩郡駒木野村
死没明治27年(1894年)12月11日
配偶者?子[1](鶴子)
両親父:落合俊雄(貞蔵?)
母:たき
子供養子:直文
学問
時代江戸時代末期 - 明治時代
研究分野国学
影響を受けた人物堀秀成、山内嘉六
落合 直亮(おちあい なおあき、文政10年8月26日〈1827年10月16日〉 - 明治27年〈1894年〉12月11日[2][3][注釈 1])は、江戸時代末期の勤王の志士、また明治時代にかけての国学者、神職、歌人。通称は源一郎(げんいちろう)。変名として水原 二郎(みずはら じろう)を用いた。
叔父に、国学者で師の山内嘉六[5]。弟に、落合直澄、直言がいる。養子は同じく国学者の落合直文。 武蔵国多摩郡駒木野宿(現在の東京都八王子市裏高尾町)小仏関の関守・落合俊雄の長男として、浅川村に生まれる[2][6][注釈 2]。菅野得斎や遠山雲如に漢籍[7]、山内嘉六[7](叔父)や堀秀成[3]に国学を学んだ。国学の影響を受けた落合は、尊王攘夷の考えを持つようになる。 弘化3年(1846年ごろ)父を継いで関吏となるも、嘉永3年(1850年ごろ)には弟の直澄に跡を継がせる[8]。文久2年(1862年)ごろ、遊学と称して上京し、清河八郎や藤本鉄石らと交流する[9][3]。翌年の天誅組の変に際し、落合は藤本の挙兵を支援すべく関東に戻り、同志を集めようとしたが、その中途で藤本らが行動を起こしてしまい、間に合わなかった[9]。 元治元年(1864年)、天狗党の乱が勃発する。落合はこれにも呼応を試みて、中村勇吉、相楽総三、桑原梧楼らとともに謀ったが、不発に終わった[9]。 慶応3年(1867年)10月10日[9](3月とも)、落合は駒木野の家を出て、江戸三田の薩摩藩邸に投じた[10]。当時、徳川幕府を挑発して開戦に導くという西郷隆盛らの計画が始まっていて、薩摩藩邸では伊牟田尚平、益満休之助、中村勇吉、相楽総三らが、倒幕の同志を募っていた。落合は、門人の峰尾忠通[注釈 3]、森田谷平[注釈 4]、林行成[注釈 5]を率いてこれに参加し[10]、自身は相楽に次いで副総裁となった[2][3][11]。これより落合は変名「水原二郎」とした[2][10](ただし、本項では一貫して本名を用いる)。
生涯
生い立ち・初期の活動
薩摩藩邸に入る