萱野茂
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日本政治家萱野 茂かやの しげる
生年月日1926年6月15日
出生地北海道沙流郡平取町二風谷
没年月日 (2006-05-06) 2006年5月6日(79歳没)
死没地北海道札幌市東区
所属政党(日本社会党→)
社会民主党→)
民主党→)
民主党
称号勲三等瑞宝章
参議院議員
選挙区比例区
当選回数1回
在任期間1994年 - 1998年
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萱野 茂(かやの しげる、1926年6月15日 - 2006年5月6日)は、日本アイヌ文化研究者。アイヌ文化、アイヌ語の保存・継承のために活動を続けた。二風谷アイヌ資料館を創設し、館長を務めた。アイヌ初の国会議員1994年から1998年まで参議院議員)。「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られる[1]

息子の萱野志朗は、萱野茂二風谷アイヌ資料館館長、世界先住民族ネットワーク・AINU代表、FMピパウシ運営者、世界先住民族サミット2008の実行委員会最高責任者。目次

1 略歴

2 政界引退時に残した言葉

3 主要著書

4 関連項目

5 脚注

6 外部リンク

略歴

1926年 - 北海道沙流郡平取町二風谷に生まれる。当時、アイヌ語を自在に操れる話者は少なくなっていたが、アイヌ語を母語とする祖母に育てられたため、2つの言語を母語として身につけた。青年期はアイヌであることから逃避するために出稼ぎに出て、炭焼きや測量士などで生計を立てる。

1953年 - 研究者や収集家による民具の流出に心を痛め、アイヌの民具、民話を自ら収集記録し始める。50年かけて集めた1121点はのちに重要有形民俗文化財の指定を受ける。

1960年 - 金田一京助金成マツの影響を受けアイヌ語の記録に着手。このころ知里真志保とも出会う。

1970年 - アイヌ女性の希望により、70?80年以上絶えていたアイヌ式の結婚式を開催。映画「アイヌの結婚式」(監督: 姫田忠義)として記録された。

1971年 - 二風谷の青年たちと、2軒のアイヌの伝統家屋チセを作る。「チセ・ア・カラ(われら・家を・つくる)」(監督: 姫田忠義)として映画化。日本で初めてのアイヌ語での映画であった。

1972年 - 収集した民具などを公開するため二風谷アイヌ資料館を設立。

1975年 - 『ウェペケレ集大成』で菊池寛賞を受賞。

1975年 - 平取町町議会議員に当選。以後5期務める。

1977年 - 10年ぶりに行われたイオマンテを主催。映画「イヨマンテ 熊おくり」(監督: 姫田忠義)として残された。

1978年 - 北海道文化奨励賞受賞

1980年 - 北海道大学文学部言語学科講師を務める。

1983年 - 「二風谷アイヌ語塾」を設立。塾長を務める。

1987年10月 - STVラジオにて「アイヌ語講座イランカラプテ」(後の「アイヌ語ラジオ講座」)を始める。

1989年 - 吉川英治文化賞受賞

1992年 - 第16回参議院議員通常選挙日本社会党から比例代表の名簿第11位で立候補(この時は次点で落選)。

1993年 - 北海道文化賞受賞

1993年 - 二風谷ダム着工のため行われた用地強制収用裁決の取り消しを求めて札幌地裁に提訴。

1994年8月 - 繰り上げ当選でアイヌ初の国会議員となる。

1996年7月 - 自らのアイヌ語語彙を網羅した『萱野茂のアイヌ語辞典』を出版。

1996年9月 - 社会民主党の分裂に伴い社会民主党を離党、民主党結成に参画。

1997年3月 - 二風谷ダムが完成していたため強制収用裁決取り消し請求は棄却された。しかし「国はアイヌ文化に対し最大限の配慮をしなければいけないのに、それを怠った」とダム建設を違法とし、アイヌ民族を先住民族と認める判決を勝ち取った。

1997年5月 - アイヌ文化振興法成立

1998年3月 - 『萱野茂のアイヌ神話集成』全10巻セット 書籍《全10巻》、C D 《全11枚》(約11時間)、ビデオ (約41分)発行 

1998年7月 - 任期満了に伴い政界を引退。息子の萱野志朗が同年参院選に社民党から出馬するも落選している。


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