萬_(女真人)
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.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}???氏族ハダナラ氏
名称表記
仮名ワン
転写wan
漢文萬(清代史料)[1]
別称

王台(明代史料)[2]

(- ???:han)[3]

生歿即位
出生年嘉靖年間?
即位年嘉靖37(1558)以前?
死歿年万暦10(1582)
血筋(主要人物)
祖父ケシネ都督
叔父ワンジュ(初代ハダ部主)
長子フルガン(二代ハダ国主)
末子メンゲブル(四代ハダ国主)
落胤カングル
娘婿ソーチャンガ(興祖三子)
養女婿タクシ(清顕祖)

ワンは、ハダナラ氏女真族。初代ハダ部主・ワンジュの甥。初代ハダ国主。

「ワン (萬)」は清代史料における呼称で、明代史料では「王台」と呼ばれる。また、中華人民共和国では基本的に簡体字の「万」で表記される。

叔父・ワンジュ死後にハダ部主に即位し、明朝の寵臣として勢力を伸ばしながら、ハダ・グルン (-国) を樹立して、フルン (海西女直) と建州部をその支配下に置いた。しかし晩年には貪婪で暴虐的な性格が禍となって民心が離れ、次々と領土を失い、憂憤のうちに死亡した。
略歴

祖父・ケシネ (五世) は明朝に事え、嘉靖初に左都督に任命されて勢力を伸長させたが、間もなく自らの統治する塔山前衛で起った内乱で横死した。[4]

ワンの叔父・ワンジュは、父・ケシネ殺害をうけてハダ地方へ逃れ、後に同地方の部主となって同じく明朝に事えた。このワンジュがハダナラ氏の始祖である。ワンジュは、度々明朝辺疆を侵犯したイェヘ部主・チュクンゲを執えて誅戮したことで、明朝から都督 (異民族に授与される最高位の官職) に任命され、更にイェヘの貢勅 (入貢勅書) 700道を横奪し、13の部落を奪取して、同時代のフルン (海西女直) 一帯に権勢を誇ったが、後にやはり部落の叛乱で殺害された。[4]
即位建国

歴代ハダ部主/ハダ国主序名即位退位/死歿
部主
初代
ワンジュ嘉靖13(1533)?嘉靖31(1552)
二代ワン嘉靖31(1552)?? 嘉靖37(1558)?
国主
初代ワン? 嘉靖37(1558)?万暦10(1582)
二代フルガン万暦10(1582)?万暦11(1583)?
三代ダイシャン万暦16(1588)?万暦19(1591)
四代メンゲブル万暦19(1591)?万暦28(1600)
末代ウルグダイ万暦29(1601)?万暦30(1602)?

ワンジュと時を同じくして、ワンはシベ部[5][6]のスイハという城 (現吉林省吉林市西方)[7]に逃れていた。ワンジュが殺害されると、子・ボルコン・シェジン[8]は父仇を討ち、ワンをハダに迎えて部主に推戴した。ハダ部主となったワンは、属部の民衆に近隣諸部を掠奪させるなど、遠交近攻外交を進めて勢力を伸ばした。[4]

嘉靖中期から後期には、後にニングタと呼ばれる地域に住んでいたヌルハチの宗族と、ドンゴ部[9]の間で抗争が起った。同地には六人の兄弟が住み、三子はソーチャンガといった (四子はヌルハチの祖父・ギョチャンガ)。ソーチャンガは自らの子・ウタイにワンの娘をもらっていた誼よしみでワンに出兵を要請し、ドンゴ兵を撃退させた。しかしその後の六兄弟は勢力の衰頽が続き、その中から徐々に勢力を伸ばしたヌルハチ (万暦38年出生) がマンジュ・グルン (満洲国) を樹立するのはワンの死から数年後のことである。[10]
蒙古接近

フフホトに駐牧していたトゥメト部が遼東 (遼河東方) への移徙を始め、万暦1 (1573) 年、ワン入貢中の隙をついて属部から馬を多数掠奪した。その後、アルタン・ハーンの弟・韋徴 (ハイスハル・フンドゥレン・ハーン?) とワンが姻戚関係を結ぶと、アルタン・ハーンの長子・ドゥーレン・センゲ・ホンタイジ (小黄台吉) もイェヘを介して婚姻を求め、50,000騎[11]を背景に圧力をかけたため、ワンは已む無く承諾した。ホンタイジは家畜のほか甲冑、皮衣などを結納として贈り、また白馬を屠って盟約を結んで、掠奪を働かないことを誓約した。それから間もなく、ホンタイジは明朝辺疆の掠奪をワンにもちかけたが、拒否されたため話は立ち消えとなった。[4]

ホンタイジは万暦10 (1582) 年に亡父・アルタン・ハーンの後を継ぎ、セチェン・ハンと称してトゥメト部主に即位するが、[12]後にワンの長子・フルガンに援軍を出してイェヘと対峙する一方、陰ではハダ併呑を目論んでフルガンの臣下を買収しようと画策した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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