萬昌院功運寺
[Wikipedia|▼Menu]

萬昌院功運寺
山門
所在地東京都中野区上高田4-14-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分45秒 東経139度40分43.3秒 / 北緯35.71250度 東経139.678694度 / 35.71250; 139.678694座標: 北緯35度42分45秒 東経139度40分43.3秒 / 北緯35.71250度 東経139.678694度 / 35.71250; 139.678694
山号龍寶山[注釈 1](りゅうほうざん)
院号萬昌院
宗派曹洞宗
本尊釈迦如来
創建年昭和23年(1948年)(萬昌院功運寺として)
萬昌院は天正2年(1574年)、
功運寺は慶長3年(1598年)
開基今川長得、永井尚政
正式名龍寶山萬昌院功運禪寺
別称久寶山萬昌院
龍谷山功運禪寺
文化財吉良上野介の墓、今川家の墓
法人番号4011205000251
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}
テンプレートを表示

萬昌院功運寺(ばんしょういんこううんじ)は、東京都中野区上高田にある曹洞宗寺院。山号は龍寶山(りゅうほうざん)。

赤穂事件忠臣蔵)で知られる吉良義央の墓がある。
歴史

元々は萬昌院という寺と功運寺という別々の寺であったものが、1948年に合併してできた寺である[1]
萬昌院

萬昌院は山号を久寶山(くほうざん)といい、天正2年(1574年)の創建と伝えられる。開基今川長得(一月長得)開山は仏照円鑑禅師(喚英長応)[1]

長得は戦国大名今川義元の三男であり、長得の兄今川氏真もはじめは萬昌院に葬られた。また、今川家と先祖を同じくする一族であり、江戸時代初期には極めて近い姻戚関係にあった吉良家菩提寺にもなっている。

もともとは江戸城半蔵門近くにあったが、その後市谷田町筑土八幡町(いずれも現在の新宿区)と幾度かの移転を繰り返した。1914年に現在地に移転してきたが、1917年火災により本堂・書院などが焼失してしまった。
功運寺

功運寺は山号は竜谷山(りゅうこくさん)といい、慶長3年(1598年)の創建である。開基は永井尚政、開山は黙室芳ァ禅師。永井尚政は将軍徳川秀忠のもとで老中を務めた人物で、功運寺は永井家菩提寺となっている[1]

創建当初は江戸城桜田門外にあったが、三田(芝三田功運町)に移り、1922年に当地に移転してきた。その後、戦後の1948年に萬昌院と功運寺が合併し現在に至っている。本尊は、釈迦如来坐像。
施設・史跡
墓地

糟屋武則(戦国武将、賤ヶ岳の七本槍の一人)の墓(武則の墓は自身の居城・加古川城跡である兵庫県加古川市称名寺にもある)

水野成之旗本旗本奴として著名)の墓

吉良家の墓吉良義央の墓もある(義央の墓は自身の領地であった愛知県西尾市華蔵寺にもある)。

小林央通清水義久の墓[2]元禄赤穂事件で斬殺された吉良家臣[注釈 2]の墓。

今川家の墓萬昌院を開いた今川長得などの墓や供養塔がある。

永井家の墓功運寺を開いた永井尚政の一族の墓がある。永井尚長(尚政の孫)は、増上寺で行われていた将軍家の法要中に刃傷を受け殺害された人物だが、加害者の内藤忠勝は浅野長矩の叔父に当たる。これにより一旦断絶した永井家は尚長の弟によって再興され、その末裔である大和新庄藩主累代の墓も本寺にある。

栗崎家の墓江戸時代の外科医・栗崎家三代(道喜・初代道有・二代道有)の墓。なお、二代栗崎道有は松の廊下で斬られた吉良義央を治療している。

大関増業下野黒羽藩主、国学者)の墓

初世歌川豊国浮世絵師)の墓

林芙美子(小説家)の墓

1960年までは当寺院内に江戸時代の町奉行大岡忠相の墓もあったが、大岡家の菩提寺であった神奈川県茅ヶ崎市浄見寺に移転した。

拝観は日中の時間帯のみ無料。

本堂

吉良家四代の墓

施設

当寺院が母体となって隣接してある幼稚園「まこと幼稚園」を運営している。
アクセス

中央線各駅停車大江戸線東中野駅より徒歩12分。

地下鉄東西線落合駅より徒歩8分。

西武新宿線新井薬師駅より徒歩10分。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 龍寳山、竜宝山
^ 小林は米沢藩より派遣。

出典^ a b c 中野区史跡研究会 編『中野区史跡散歩 (東京史跡ガイド14)』学生社、1992年、102-103p
^ 松島栄一『忠臣蔵』(岩波書店、1964年)122p

関連項目

長延寺 - 旧今川家菩提寺。萬昌院と開山(仏照円鑑禅師喚英長応)を同じくする。

観泉寺 - 杉並区にある寺院。観泉寺にも今川家の累代の墓地がある。

外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、萬昌院功運寺に関連するカテゴリがあります。

龍寶山萬昌院功運寺・まこと幼稚園ホームページ


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:13 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef