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別名萩田 光男(はぎた みつお)
1994年-
生誕 (1946-06-16) 1946年6月16日(77歳)
出身地 日本・静岡県
学歴慶應義塾志木高等学校卒業
慶應義塾大学工学部卒業
ジャンルJ-POP
ニューミュージック
アイドル歌謡
職業作曲家
編曲家
活動期間1973年 -
共同作業者阿久悠
筒美京平
宇崎竜童
網倉一也
井上大輔
公式サイト ⇒萩田 光雄
萩田 光雄(はぎた みつお、1946年6月16日 - )は、日本の作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。静岡県出身。血液型A型。 疎開先の福島県信夫郡信夫村で生まれた。戦後、そこから一家は東京に戻ろうとしたが、まだ焼け野原だったため、埼玉県浦和に引っ越す[1]。 両親はともに静岡の生まれで、家業は電子部品を作る会社の経営で、家は東京の大森にあった[1]。 父は音楽には興味はなかったが、母は琴を弾き、11才年の離れた兄は、自分で電蓄を作り、ベートーヴェンやモーツァルトのレコードを聴いていた。上の姉はピアノを習っていたので、我が家にはピアノがあったが、幼少期の音楽体験はなかった[1][2]。 中学に入りブラスバンドの応援で、打楽器を担当し、その後正式部員となり3年に進級する際、先生から「(管楽器の)トランペットとホルンとチューバの欠員が出たので、どれかやってみないか」と言われ、チューバだけ音が出せたので、担当した[1]。このとき、低音楽器のチューバを担当したことが後のアレンジに活きたという[1][2]。 父の経営している会社に入るつもりだったので、慶應義塾志木高等学校を卒業後、慶應義塾大学工学部電気科を進学するも、在学中も音楽三昧だったので、途中で跡継ぎに進むことは考えなくなり、そのまま卒業する[1]。大学在学中にはクラシカルギタークラブに在籍していた。 音楽の道に進もうと決めたのは、22才の頃に、ある音楽雑誌が主催する作曲コンクールに応募し、一等賞をもらったことがきっかけ[1]。 その後、「オーケストラみたいなことがやりたいので専門知識を勉強しよう」と、24歳の時にヤマハ音楽振興会の作・編曲教室に入学。修了後、ヤマハに勤務し、ポピュラーソングコンテストの応募作品のミキシングなどの仕事をする。
来歴