萩本欽一
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本名萩本 欽一
ニックネーム欽ちゃん、大将
別名義秋房子
生年月日 (1941-05-07) 1941年5月7日(83歳)
出身地 日本 東京府東京市下谷区
(現:東京都台東区
(生育地は埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和地区))
血液型A型
身長164 cm
言語日本語
方言東京弁首都圏方言
最終学歴駒澤大学仏教学部中退
師匠深見千三郎[1]、池信一[2]東八郎はかま満緒石田瑛二
出身浅草東洋劇場
コンビ名コント55号
相方坂上二郎
芸風コント
事務所浅井企画佐藤企画萩本企画
活動時期1960年 -
現在の代表番組欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞
過去の代表番組欽ドン!
欽ちゃんのどこまでやるの!
スター誕生!
欽ちゃんのアドリブで笑(ショー)など
他の活動構成作家
社会人野球オーナー
映画制作
配偶者独身(2020年に死別)
弟子岩がん太斎藤清六松原桃太郎
公式サイト ⇒プロフィール
受賞歴
ゴールデンアロー賞
テレビ大賞
ギャラクシー賞
モービル児童文化賞
ブルーリボン賞
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萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年昭和16年〉5月7日 - )は、日本のコメディアン、テレビ司会者。

1966年、相方の坂上二郎と結成した「コント55号」が絶大な人気を得て、60年代後半のテレビを席巻する。

70年以降は司会者としての単独活動も開始。特に80年代以降は彼の名前を冠したレギュラー番組が軒並み高視聴率を記録、「視聴率100%男」との異名を取った。また、これらの番組から始まった様々なお笑いのスタイルは(後述)その後のバラエティー番組へ多大なる影響を与えた。

昭和のバラエティー番組黄金期を代表する人物である。

日本野球連盟に所属する野球クラブチーム茨城ゴールデンゴールズ」創立者で、初代監督を務めた。司会者などタレント業のほか、舞台などの演出家としても活動する。

浅井企画所属。浅井企画グループの佐藤企画と業務提携し、同じく浅井企画傘下に置く個人事務所・萩本企画にも所属している。

東京府東京市下谷区稲荷町(現:東京都台東区東上野3丁目)出身の埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和地区)育ち。血液型はA型。

欽ちゃん、大将愛称で広く知られる。
概要

大衆からはもとより、芸能界でも先輩・後輩問わず「欽ちゃん」の愛称で呼ばれる[3]。その他の愛称は「萩モー」「萩」「欽坊」「欽様」など。

また、彼の番組や舞台から育った欽ちゃんファミリー等からは、「師匠」などとは呼ばせず「大将」と呼ばれている。ビートたけしが、弟子たちに「師匠」ではなく「殿」と呼ばせているのは、萩本と周囲のこうした関係性への憧憬や敬意によるところが大きい[要出典]。また、ゴールデンゴールズの選手には「欽督(きんとく)」と呼ばせた。欽ちゃん走り

1970年代?1980年代に、「なんでそーなるの!」などのギャグや、「欽ちゃん走り」と言われる独特の走り方(原点は師匠の東八郎)など体を使った笑い、さらに素人および素人っぽさを残す芸能人の才能を開花させたり番組でユニットを作り曲を出すなど、現在のバラエティの基本を開発した人物で、お笑い界の革命児として一世を風靡した。本人によると「演技のボケは難しいから、素人を連れてくる方が簡単」。

「どっちらけ」「バンザーイなしよ」など、語り継がれるギャグも多い。後に普通に使われるようになった「ウケる」(ややウケ、バカウケなど)という言葉も、最初は『欽ちゃんのドンといってみよう!!』から広まったとされ、芸人言葉を一般に広めた。また、「天然ボケ」「天然」を初めて使ったのも萩本であるとされている。
来歴
誕生から東洋劇場入団まで

1941年(昭和16年)、父・萩本団治、母・トミの三男として現在の東京都台東区稲荷町に生まれる[4]。両親は香川県小豆島出身[5]。父の実家は饅頭屋で、母はお嬢様で嫁ぎ先で洗濯をする発想が無く洗濯物を貯めこむ有様だった。稲荷町で幼少期を過ごすも、父親が稲荷町の長屋で営んでいたカメラ製造販売(戦時中に借金をして買い込んだ故障品を戦後ニコイチで粗製し、進駐軍に売りさばいた)が成功し埼玉県浦和市に家を建てたため、稲荷町から一家で浦和に転居し、裕福な少年時代を送る[6]

父は都内にを囲っており、浦和へは週末しか帰宅しなかったが、母はそれを甲斐性として是認して子供達には立派な父だと教え、妾宅へ遊びに行く事を勧めたりしたという。父と愛人とで浅草へよく出かけ、それが芸能へ興味を持つ原点になっている。地元の市立高砂小学校では級長をしたが、強い生徒の後ろに隠れたり、女の子と遊ぶような少年だった。遊びに行った家の親御さんにおべっかを使うのが上手で可愛がられたという。

1952年、小学5年の時に父の会社が倒産(低価格カメラを発売するも販売不振。ボルタフィルムを参照)し、家には借金取りが連日押し寄せる。かなりショックを受けて涙が出てきたという。その後、再び稲荷町の長屋に居を移し、中学3年の時に文京区丸山町に転居するが極貧生活を余儀なくされ、高校時代に一家で夜逃げ。その後家族は解散し両親は香川に帰った[7]。父はその後、欽一の兄が開いた写真館で働いていた。

極貧の生活を抜け出したく、映画で“面白い人が面白いことをしてお金をもらっている姿”を見たことがきっかけで、中学卒業と同時に芸人を目指し浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充の元へ弟子入りを請うが、「せめて高校を出てからおいで」と断られた[8]私立駒込高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場(東洋興業経営)の仲介で、再度入門を請うべく大宮が常打ちにしていた浅草松竹演芸場へと赴くが、寸前で入門することを取り止め、その足で同じ近隣の東洋劇場に入団。研究生としてコメディアンの卵となる。
修行時代から劇団立ち上げまで

東洋劇場では、先輩芸人である池信一石田英二、そして東八郎から数多くの指導を受ける。また、彼らの大師匠筋である深見千三郎からも薫陶を受け、大いに可愛がられた。

入団当時、極度のあがり症などでうまくセリフが言えず、演出家の緑川士朗から「君は才能がないからやめたほうがいい」と言われて落ち込んだが、池が説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっといていいよ」と引き止めた。その後、緑川から「才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ」と池が説得したことを知らされ、「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ」と言われ奮起し、誰も居ない劇場で早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返した。

父の家が火災になり、助けるためにコメディアンを辞めようとしたこともあったが、それを聞いた池は、劇場の関係者からカンパを募り約60万円を渡した。これには、感極まって号泣し、コメディアンを続けていくことを決意した[注 1]

系列の浅草フランス座へ出向した後は、ストリップの幕間コントに出演していたが、当時、漫才師崩れの専属コメディアン・安藤ロール(後の坂上二郎)と知り合う。当初の坂上に対する印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」だったという。

その後東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て、浅草松竹演芸場で「劇団浅草新喜劇」を旗揚げ。同時期に、放送作家のはかま満緒に師事し、お笑い作りに本格的に取り組んでいたが、後年コント55号のほとんどの台本を手掛けた岩城未知男と知り合う。はかまの伝手で、TBSのプロデューサー・向井爽也や芸能マネージャー・浅井良二浅井企画代表)と知り合い、本格的にタレント活動を開始し、向井の手掛ける公開コメディ番組ジンタカ・パンチ!のコマーシャルに起用された[9]

CM収録で19回ものNGを連発し、降板を余儀なくされる[10]。一度はテレビ進出を諦め、生涯舞台役者で生きていくことを決意し、浅草新喜劇も解散して、熱海つるやホテルの営業で再起を期していた。

後に『快獣ブースカ』で脚本家デビューすることになる市川森一と、はかま満緒師事時代に友好を持ち、市川は後年、日本テレビの開局40周年スペシャルドラマ『ゴールデンボーイズ』で、若かりし頃の萩本(演者は小堺一機)の、これらのエピソードを描いている。
コント55号結成

熱海の営業で考案したコント「机」を売り込もうと帰京したところ、たまたま坂上二郎から電話が掛かってきて会うことになり、その際、「机」のあらすじを語ったところ坂上から「そのコントは俺と欽ちゃんで演じた方がいいのでは」と提案されたのがきっかけとなり、一回の舞台契約だけで、1966年、「コント55号」を結成[注 2]

なお帰京後すぐにそのまま劇場にコントを売り込むつもりでおり、帰京直後というタイミングで坂上からの電話がなければコント55号の結成はなかったと後年語っている。

前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送『お昼のゴールデンショー』(1968年?1971年)で人気に火がつき、『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』『コント55号のなんでそうなるの?』(ともに日本テレビ)、『チータ55号』『みんなで出よう55号決定版!→55号決定版!』(TBS)、『ウォー!コント55号!!』『コント55号!!笑ってたまるか!?』(いずれもNETテレビ・現:テレビ朝日)など数多くのレギュラー番組を抱え、テレビを席巻した。

その後もコンビ活動は続いたが、70年代後半以降はコンビでのコントやテレビ出演の機会が減少し、次第に個々の活動を中心とするスタンスに変わっていった。
視聴率100%男

1971年、日本テレビスター誕生!』の初代司会者として単独での活動を始め、1972年にはニッポン放送のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』が開始された。


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