萩城
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山口県
天守台 〔左端〕 と指月山
別名指月城
城郭構造梯郭式平山城(指月山)
天守構造複合式望楼型5層5階(1608年築・非現存)
築城主毛利輝元
築城年慶長9年(1604年
主な城主毛利氏
廃城年明治7年(1874年
遺構長屋石垣
指定文化財国の重要文化財(厚狭毛利家長屋)
国の史跡
再建造物北の総門・土塀・土橋
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度25分3.33秒 東経131度22分56.92秒 / 北緯34.4175917度 東経131.3824778度 / 34.4175917; 131.3824778座標: 北緯34度25分3.33秒 東経131度22分56.92秒 / 北緯34.4175917度 東経131.3824778度 / 34.4175917; 131.3824778
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萩城跡

萩城(はぎじょう)は、山口県萩市にあった日本の城。別名指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。

現在、城跡は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。萩市の観光の中でも有名である。
概要天守 明治初期

関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより周防国長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元[1]は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。

指月山の山麓にある平城本丸二の丸三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令によりなど他の建物と共に破却され、石垣(水堀)のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真[2]で見ることができる。

現在、二の丸土塀や三の丸総門など一部は木造復元されている。さらには、破却された天守など建物の木造復元を行う動きもあるが、財源の問題で難しくなっている。
歴史・沿革
戦国時代

戦国時代、指月山に津和野城主・吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となった。

1600年慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍総大将となった毛利輝元は安芸国ほか8か国で112万石の大大名であったが、敗戦により隠居のうえ嫡男の秀就に家督を譲るように命じられ、2か国29万8千石[3]余に減封された。

江戸時代毛利輝元

1603年(慶長8年)幼少の秀就に代わり、輝元は後見役として萩・山口三田尻防府市)の3ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めた。これに対し幕府は、海に臨み要害の地である萩が良いとの回答をしている。

1604年(慶長9年)萩城建造に着手。指月山に連なる干潟を埋め立て、城地を建造した。輝元は、本丸御殿などまだ一部しか出来ていなかった11月に、早々に入城した。

1608年(慶長13年)落成。平時に建設された城ではあるが、指月山に詰の丸を配するなど、戦時を意識した構えとなっている。

1613年(慶長18年)、幕閣とも協議のうえ36万9千石に高直し、幕府は長州藩の表高として公認した。この石高は支藩の分与後も変わることはなかった。

1863年文久3年)時の藩主・毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口城(山口市)に移し、萩城は藩庁としての役目を終えた(山口移鎮)。

近現代

1874年(明治7年)廃城令により天守・櫓などの建物を破却。

1951年(昭和26年)国の史跡に指定される。

1967年(昭和42年)萩城下町が国の史跡に指定される。

1971年(昭和46年)指月山が国の天然記念物に指定される。

1996年 - 堀や石垣・門の復元・保存を行う「史跡萩城跡外堀保存整備事業」を開始。

2004年 - 「史跡萩城跡外堀保存整備事業」によって北の総門が復元される。


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