萩原英雄
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萩原 英雄(はぎわら ひでお、1913年大正2年〉2月22日 - 2007年平成19年〉11月4日)は、日本画家油彩画、現代木版画などを描く。
略歴
出生から戦前の活動

1913年(大正2年)2月22日、山梨県甲府市相生町(現在の甲府市一丁目)に生まれる[1]。父は元治郎・母は「ふじ」、英雄は元治郎の次男[1]。父の元治郎は警察署長を務め、蔵書家としても知られ、現在の山梨県笛吹市境川町の出身である俳人飯田蛇笏(いいだ だこつ)とも親交があった[1]

1920年(大正9年)、元治郎は日本統治下の朝鮮・定州の警察署長として単身赴任し、翌1921年(大正10年)には華族を呼び寄せ英雄も朝鮮へ渡る[1]1929年(昭和4年)には単身で日本へ帰国し、東京の日本大学第二中学校(現・日大二高)に編入する[1]。東京府下野方町上高田(東京都中野区)に住む[1]。このころより油彩画をはじめ、1930年(昭和5年)には耳野卯三郎から指導を受けている[1]

1932年(昭和8年)3月に旧制中学を卒業し、同年4月には文化学院美術科へ入学する[1]。このころには公募展へも作品を出展し、白日会第9回展に油彩画の作品<雑木林>が入選し、光風会第19回展では油彩画<上り道>、日本水彩画会第19会展に水彩画<アネモネ>(東京藝術大学所蔵)が入選している[1]

1933年(昭和8年)4月に東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)油絵科へ入学する[1]。東美時代は授業で木版画銅版画とも接している。在学中は両親の理解や姉夫婦の援助を受け、西洋美術の画集や文献を収集し、セザンヌ[要曖昧さ回避]など近代美術を好みつつ、16世紀まで遡り西洋美術を研究したという[2]。この年には白日会第10回展に油彩画<風景>、光風会第20回展に油彩画<南天畑>が入選しているが、これ以降は学校の校則により公募展出展が禁止されたため、公募展への出展は行っていない[1]

1934年(昭和9年)には東京美術学校油画科本科へ進み、南薫造の指導を受ける[1]。本科時代には後の洋画家・長谷川利行とも知り合っている[1]1938年(昭和13年)3月に東京美術学校油画科本科を卒業する[1]。卒業制作は<自画像>で、多くの初期油彩画が戦災で失われているなか現存しており、同年制作のアカデミックな雰囲気において、鋭い眼差しを向ける詰襟姿の青年として自身を描いている[3][4]

この年には父が死去し、同年4月には浮世絵の複製を手がけていた高見沢木版社に入社し、企画部を担当し主に図版の出版や職人のマネージメントに携わった[1]。セザンヌやマティス[要曖昧さ回避]らの画集刊行に携わり、浮世絵についても理解を深める[1]。同年11月には結婚する[1]

1943年(昭和18年)6月には召集を受けて高見沢出版社を退社し、陸軍東部第17部隊に入隊する[1]。短期間で除隊となる。1945年(昭和20年)3月の東京大空襲では自宅のアトリエが初期作品や蒐集品とともに焼失する[1]
療養生活と版画制作の開始

戦後は生活のために勤めることはせず、極貧生活のなかで制作活動に励んだ。この時期の作品は美術学校で学んだアカデミックな雰囲気を持つ写実的な作風で、1951年(昭和26年)には銀座資生堂で油絵作品の個展を開催し、油彩画の他に銅版画も手がけていた。

1953年(昭和28年)5月には肺結核に倒れて救世軍杉並療養所に入所し、3年間の療養生活を余儀なくされる[5]。療養中には療養所の患者同士で絵を描き、それを回覧する「ピノチオ会」の活動を行った[5]素描水彩画を制作しているが、画題は風景や花など身近なものや身近な人物の肖像などが多くなり、色彩も原色傾向に移り抽象傾向に傾いていく。また知人から聖書を送られ、同年制作のパステル画<聖書に関する物語の十二の試>など、キリスト教の影響も受けた作品も多い[5]

療養初年度には、友人への年賀状に高見沢木版社時代に学んだ木版画の技法で<牛>を制作する[5]


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