萩原智子
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萩原 智子

選手情報
フルネーム萩原 智子
ニックネームハギトモ
国籍
日本
生年月日 (1980-04-13) 1980年4月13日(41歳)
身長181cm[1]
血液型O型[2]

 獲得メダル

競泳
日本
世界選手権
2001 福岡4x200mフリーリレー
パンパシ水泳
1999女子200m背泳ぎ
2002200m個人メドレー
ユニバーシアード
金1999 Mallorca100m Butterfly
金1999 Mallorca200m Medley
銀1999 Mallorca100m Backstroke
銀1999 Mallorca200m Backstroke
銀2001 Beijing200m Backstroke


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萩原 智子(はぎわら ともこ、1980年4月13日 - )は、日本の元水泳競泳選手スポーツコメンテータータレント。愛称:ハギトモ、本名:佐藤 智子。山梨県甲府市出身。山梨学院大学大学院卒業。スポーツバックス所属。日本水泳連盟理事日本マスターズ水泳協会理事[3]2020年東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員。

現役時代は、得意種目の背泳ぎを中心に、自由形個人メドレーなども手掛け、2002年日本選手権水泳競技大会では、史上初の個人4冠を達成。2000年シドニーオリンピック・女子競泳日本代表(200m背泳ぎ4位・200m個人メドレー8位各入賞)。2001年世界水泳選手権800mフリーリレー銅メダリスト。現役引退後はスポーツコメンテーター・タレントなどで活動中。

テレビ山梨アナウンサーの小嶋優は姉の夫。直木賞作家の東野圭吾は母方の親戚でもある。目次

1 経歴

1.1 大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出

1.2 大学院時代・一時引退後

1.3 現役復帰

1.4 再び引退後


2 主な記録

2.1 シドニー五輪


3 著書

4 関連書籍・監修

5 出演

6 主な役職

7 脚注

8 外部リンク

経歴
大学生時代まで・シドニーオリンピック代表選出

山梨県甲府市出身。甲府市立西中学校[4]3年になった1995年、全日本ジュニアチームのメンバーに選出された。

翌1996年に山梨学院大学附属高等学校入学(同級生に森田丈武)。在学中は3年連続でインターハイに出場し、200m背泳ぎで3連覇。1998年のアジア大会では100m、200mの背泳ぎ、並びに400mメドレーリレーの3冠を達成した。1999年に卒業後は学内制度により母系の山梨学院大学法学部[5]へ進学した。これにより現在に至るまで同大学を活動の拠点とする。

入学した年にパンパシフィック水泳選手権200m背泳ぎで金メダルを獲得。翌2000年に行われるシドニーオリンピックのテスト大会だったこともあり、大きく期待されていた。

2000年4月の日本水泳選手権(シドニー五輪国内選考会)では、200m個人メドレーで当時の日本記録を達成し優勝。200m背泳ぎでは、優勝の中尾美樹に次いで2位に入り[6]、当五輪で自身初めての日本代表として、競泳2種目の出場権を獲得した。 シドニー記念水泳場

2000年9月に開催されたシドニー五輪本番のレースは、200m個人メドレーで日本女子のトップながらも8位入賞に留まる。200m背泳ぎではレース終盤で同日本代表の中尾美樹と3位を争ったが、タッチの差で惜しくも敗れ4位入賞で、2種目共に念願の五輪メダル獲得は成らなかった。それでも200m背泳ぎの決勝後には、僅差で銅メダル獲得の中尾に駆け寄り、萩原自ら笑顔で祝福の言葉を送ると、中尾は嬉し涙を流していた[7]。また萩原の活動が評価されて、大学が新たに建設した屋内プールは「シドニー記念水泳場」と命名される。

3年生になった2001年、福岡市で開かれた世界水泳選手権では、800m自由形リレーのメンバーに選ばれて3位に入賞、銅メダルを獲得した。

4年生になった2002年、日本水泳選手権で200m自由形、200m背泳ぎ、200m個人メドレー、100m自由形での史上初となる個人4冠を達成。しかしこの快挙が皮肉にも、彼女の水泳人生を大きく狂わせるきっかけにも繋がってしまう。

2002年8月に横浜市で開かれたパンパシフィック水泳で、200m個人メドレーでは金メダルを獲得。だが日本選手権優勝多数により、多くの種目にエントリーした強行日程が祟ったせいか、大会中に過呼吸を3度も発症し、200m背泳ぎ決勝レースを直前で棄権し、そのまま緊急入院する事態となってしまった。同年10月の釜山アジア大会代表にも選ばれていたが、重度の過換気症候群と診断されてこれも辞退。結局満足な結果を残すことが出来ないまま、大学生活を終えることとなった。

なお、大学生時代は教育実習もしており、その時の教え子に、当時高校生の松本哲也(元読売ジャイアンツ選手)が居たため、今でも気になっているという。なお、プロ野球は特にどこのチームのファンというわけではないが、ファンである選手に松本の他、上原浩治松坂大輔内川聖一栗山英樹を挙げている[8]
大学院時代・一時引退後

2003年に競技生活を続けるため山梨学院大学大学院社会科学研究科修士課程(公共政策専攻)[5]に進んだものの、その年は翌年に五輪を控えていたこともあり、静養のため殆どレースに出場しなかった。しかし、9月に“お隣”静岡県で行われたNEW!!わかふじ国体には山梨県選手団の一員としてエントリー。200m個人メドレー成年女子の部で大会記録を更新、復活の優勝を果たした[9][10]

2004年アテネオリンピック出場を目指して、この年の日本選手権に全てをかけたが、50m自由形では優勝しながらも派遣標準記録の25秒30に0.32秒足りず、また100m自由形も派遣記録に届かず2位となり、2大会連続の五輪代表を逃した。その直後、一旦現役を引退する事を表明した。

大学院修了後も職員の形で引き続き学校法人山梨学院に残り、山梨学院大学スポーツガレッジセンターの研究員[11]として今に至る。2005年4月から1年間、地元山梨放送のスポーツコメンテーターとして、『山日YBSワイドニュース』(現在の『YBSワイドニュース』、テレビ)、『YBSニュース深夜便』、『YBSニュース・アップ!』(ラジオ)の「ハギトモSmile Sports」というコーナーに出演していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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