萩原敏雄
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はぎわら としお
萩原 敏雄
生誕 (1936-05-18)
1936年5月18日(88歳)
日本 東京府
出身校慶應義塾高等学校
慶應義塾大学文学部
職業テレビプロデューサー
実業家
活動期間1959年 - 2009年
雇用者日本テレビ放送網
著名な実績日本テレビ放送網 社長
子供萩原大(読売テレビプロデューサー)
萩原雄祐(父)
親戚小坂善之助(曽祖父)
深井英五(祖父)
萩原章嘉(甥)
萩原隆雄(甥)
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萩原 敏雄(はぎわら としお、1936年(昭和11年)5月18日 - )は、日本テレビプロデューサー実業家日本テレビ社長、日本テレビフットボールクラブ会長兼社長を務めた。
来歴・人物

萩原雄祐・結子夫妻の三男として東京府(現・東京都)に生まれる[1][2]

慶應義塾高等学校を経て慶應義塾大学文学部を卒業。俳優早川保川口浩は慶應高校の同級生[注釈 1]。早川とは慶大でも同期であった。

文学青年だった萩原は、出版社を志し、新潮社の最終面接まで行った[3]。だが、萩原には日本テレビにコネがあった[4]。新潮社の最終面接で「あなたは合格したら間違いなく入社しますね?」という問いに正直に答えた[4]。日本テレビが採ってくれるといえば、そちらに入らざるを得ないと、[4]。結果、当然ながら新潮社から不合格の連絡が入り[4]1959年4月に日本テレビに入社することになった。
日本テレビ入社

入社後、配属されたのは脚本部。先輩のアイデアを企画書にまとめるのが仕事だった[4]。程なく制作部に異動すると、松本尚彦の薫陶を受けた。松本は映画界からテレビ界に転身し、ドラマバラエティクイズもあらゆる種類のテレビ番組を手がけていた[5]。だから、萩原もその下で何でも屋に育っていった[6]。松本の代表作といえば『ほろにがショー 何でもやりまショー』であるが、この番組の1コーナーとして「どっきりカメラ」がつくられた[6]。それを手がけたのは、萩原と同期の太田杜夫だった[6]。しかし、太田は『ショック!!』という番組の企画を立ち上げると、その番組のために長期間海外へ飛び、『何でもやりまショー』のプロデューサーから降りてしまった[6]。その結果、「どっきりカメラ」が『元祖どっきりカメラ』として独立し番組化されるときに、白羽の矢がたったのが萩原だった[6]。こうして萩原の代表作は生まれた[6]。だが萩原は、番組とは最初につくった人のもので、確かに番組を発展させたと言われればそうだが、自分の番組ではなく、『どっきりカメラ』は太田そのものだと話す[6]。そんな中で紛れもなくは萩原の番組といえるのが『それは秘密です!!』と『特ダネ登場!?』だった[7]。『元祖どっきりカメラ』も含め、3番組ともが視聴率20%を超える人気番組となり、功績が認められ「社長賞」が与えられた[7]

1982年9月に第1制作局制作第2部長、1984年12月に編成局編成部長、1986年7月に編成次長、1989年広報局長、1992年スポーツ局長を歴任[8]

1992年11月、一度は日本テレビから追放された読売新聞社出身の氏家齊一郎が社長に就任した[9]。氏家は一度日本テレビに来たときから、萩原の手腕に一目置いていた[10]。80年代の日本テレビは、制作局ではプロデューサーが大きな力を持っており、いわゆる縄張り意識が強かった[11]。その上で営業の力も強かったため、編成は営業と制作の調整役のような役回りに甘んじていた[12]。本来、編成とは局全体のことを第一に考え番組編成を最適なものに変えていく部署[12]。だが、当時はその構造ゆえ役割を果たしているとはいえなかった[12]。それでは、ヒット番組ができたとしても、局全体の底上げにはならない[12]フジテレビも70年代は、同じような仕組みだったが、鹿内春雄が大改革を断行し、編成主導に変えた[12]。氏家は日本テレビも大編成局をつくり編成主導にしなければならないのではないか。と考え、スポーツ局長だった萩原を呼び出した[12]。「どうしたら日本テレビは視聴率でトップになれるか?」「誰が何をやろうと、今のままでは絶対に獲れません」単刀直入に尋ねる氏家に萩原はそう断言し、続けた[12]。「徹底的な編成の構造改革が必要です」萩原はこの時、ある編成案をすぐに提示した[12]。「編成改革をして問題はないのか?」氏家からの問いに、萩原はあえて正直に答えた[13]。「営業から制作のクリエーター、報道とスポーツ……。社内では各方面で大問題になるでしょう」少し考え、氏家は萩原の目を見据え言った[13]。「本当にこれをやれば勝つチャンスはあるのか?」「チャンスはあります」「よし、やろう!」即決だった[13]
社長就任

1993年5月、氏家は萩原を編成局長に据え、翌月、取締役に指名した[14]。1996年5月に常務取締役、2000年5月に専務取締役、2001年6月にそれまで読売新聞社出身者が歴代の社長を務めていた日本テレビにおいて初のプロパー社長に就任した[15]。氏家・萩原体制の日本テレビは、民放各局の中でもずば抜けて視聴率を重視した舵取りをし[16]、94年以降、9年連続で年間視聴率四冠王に君臨し続けた[15]。しかし、2003年10月に発覚した「日本テレビ視聴率買収事件」の責任を取り萩原は副社長に降格[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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