萩元晴彦
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はぎもと はるひこ
萩元 晴彦
生誕 (1930-03-07) 1930年3月7日
長野県飯田市
死没 (2001-09-04) 2001年9月4日(71歳没)
死因脳梗塞
出身校早稲田大学文学部露文科
職業テレビ制作者、プロデューサー実業家
親萩元隼人、萩元たけ子
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萩元 晴彦(はぎもと はるひこ、1930年(昭和5年)3月7日 - 2001年(平成13年)9月4日)は、日本のテレビ制作者、音楽プロデューサー、実業家テレビマンユニオン初代社長。
来歴
テレビ草創期の名プロデューサー

長野県飯田市出身。父・萩元隼人は、労働運動家で日本社会党左派社会党公認で長野4区から総選挙に出馬したが、1953年の総選挙公示直前に急死した。このため身代わりとして母・萩元たけ子が立候補。トップ当選を果たし、衆議院議員を1期務めた。

1937年に一家で上京し、自由学園に学ぶ。幼少のころは虚弱児童で、小学校は病気がちで欠席が多かった。しかし勉学の方は大変早熟であり、小学校1年生のときに6年生までの漢字はほとんど読めた[1]。45年、長野県南安曇郡烏川村(現安曇野市)に移り、旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)疎開入学した。連日故なき暴力的制裁を受けたと自伝に記しており、そのいじめに対抗、野球部に入部する[1]。47年夏、新潟での全国中学野球信越大会の決勝で延長23回を完投し、4対2で松本市中を破って優勝した。甲子園第29回全国中等学校優勝野球大会)には下駄履きで米を背負って出場したが、2回投げてノックアウトの惨敗を喫した[2]

1953年早稲田大学文学部露文科卒業後、ラジオ東京(現TBSテレビ)に入社[3]。「神これを癒し給う・心臓外科手術の記録」「三元宇宙中継/東京・ベルリン・ローマ 今語ろう世界の若者たち」など数々の作品を制作。また61年を最盛期として、労音の構成、演出を担当しており、当時1年間で60回も東京で演出を担当した。加えて大阪労音でも同じくらい演出しており、これだけ激しい内職をしたTBSの社員はほかにいなかっただろうといわれている[2]

1970年にTBSの仲間25人と共に同社を退社。日本初の独立系テレビ番組制作会社・テレビマンユニオンを創立し、初代社長に就任する[3]。旅番組のさきがけである『遠くへ行きたい』や、日本初の3時間ドラマ『海は甦える』などをプロデュースしたが、特にクラシック音楽に関する番組を数多く制作。『オーケストラがやって来た[4]、TBS創立30周年記念番組『カラヤンとベルリンフィルのすべて』などを手がけた[5]1986年会長に退く[3]

遺作は、2001年の新春スペシャルドラマで、病身で勝負に打ち込む棋士・村山聖を描いたドラマ『聖の青春』。萩元が大崎善生の原作に惚れ込んで、出版元の講談社と直談判。ドラマ化権を獲得し、村山の地元の放送局・中国放送での制作・放送にこぎつけた。同年9月4日、脳梗塞で死去。


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