菱田川
旧・市柴橋
水系二級水系 菱田川
種別二級河川
延長55.4 km
流域面積394.4 km²
水源荒磯岳
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城西橋より下流方
菱田川(ひしだがわ)は、鹿児島県大隅中部一帯を流れる二級河川。川内川に次ぐ県内第二の河川と一般に称され、二級水系としては鹿児島県内最長・流域面積も天降川に次いで県内第二の規模を擁する。前川合流地点より上流部は佳例川(かれいがわ)とも呼ばれる。
地理西麓に源を発し南東流する。源流部は牧之原台地(シラス台地)の一角で、谷津田地形が流路に沿って広がっており流れは緩やか。佳例川の中央部、前川内川との合流点には「ふるさと水車」が設置された「水の駅佳例川」があり、地域のシンボルとなっている。前川内川を合わせると程なく曽於市大隅町に入り、旧末吉町との境界部を暫く流れる。周囲は谷津田から針葉樹に囲まれた幽谷に変わり、末吉町岩崎付近まで蛇行を繰り返す。この付近は文化財にこそ指定されていないが、大正から昭和初期にかけて竣工した石橋が数多く残されている。
流れを南西へ変えるとやがて大隅市街地に入り、西から並流してきた前川を合わせる。流量の増大した菱田川は南東へ進み市街地を抜け、ますます深山幽谷の様相を呈する。曽於市と志布志市松山町との市境になり、松山市街地にて山角川・松尾川が東から合流すると、南寄りへ蛇行し旧有明町域となる。そして最大支流の大鳥川を合わせると市境を抜けて志布志市西部を貫流する。有明大橋などの巨大な橋梁から渓谷を眺望することができ、かつてはドライブインスポットとして賑わった。下流部は安楽川や田原川のような他水系の本流も至近を流れていることから、流域面積が狭くなっており、小規模な河岸段丘を形成するに留まっている。河口付近は曽於郡大崎町との境界となり、高尾川を合わせて志布志湾に流入する。元来菱田川は通山地区において東隣を流れる安楽川と合流していたが、河口における土砂堆積によって両者は合流しなくなり、ふゆ湖と呼ばれる三日月湖が形成され、それがシラスで埋め立てられて現在に至っている[1]。
流路の大部分が二級河川に指定されている。水系全体の指定河川数は天降川や万之瀬川には及ばないものの、本流に匹敵する大規模な支流が多い。流域は鹿屋市にも及び、大鳥川の鹿屋市輝北町には菱田川水系唯一の利水施設として輝北ダムがある。流域のほぼ全てがシラス地帯である[2]。
大崎町の河口においてはシラスウナギ漁が冬の風物詩となっており[3]、有明町の組合と共同で昭和中期より毎年初夏にウナギの放流が行われてきている[4]。 菱田川流域はシラスに覆われ、土地が痩せており農業には適さなかった。わずかに営農されていた畑地はしばしば水不足となっていたことから、流域の農業生産の安定は江戸時代以来からの住民の悲願であった。しかし中下流部に位置する有明町は、流量の多い菱田川がシラスを深く抉って深山幽谷の地形を作り出しており、畑のある台地までは川面からの高低差が70mにも及ぶことから、当時の技術力・資金力ではこの流域に導水することは極めて困難であった。そのような中明治時代以降長きにわたり、有明町右岸の蓬原(ふつはら)台地及び左岸の野井倉台地を対象とした開田事業が行われた。全国的にも稀有なこれらの大規模開田は「二大開田」と称され、有明町は「開田の町」として知られることとなったのである。 1892年(明治25年)6月、都城から隈元宗正・松山篤実、熊本から川村競・江崎四郎の4人が発起人となり水路工事に着工。取入口の中途変更や固い地盤に対する難工事で次第に資金不足に陥り、前田正名を通じて京都の実業家大沢善助を頼ることとなった。1895年(明治28年)11月、大沢善助・堤弥兵衛・高木文平の3人を資本主とすることで工事が再開。1898年(明治31年)3月24日に水路は完成し、約120haが開田された。しかし特殊条件下で農業生産は振るわず、水不足や雑草問題なども相まって収穫能率が極めて悪かった。事業の中心人物であった隈元・川村の両氏が病死すると事業は停滞し、開田区域は140ha余が拡張されたのみであった。 東京から帰郷し蓬原の地に馬場病院を開いていた馬場藤吉 後述する野井倉開田の完工後、1958年(昭和33年)に蓬原開田碑が建立され、馬場の長男による「幾十年 幾十万の 汗乃水」という銘文が刻まれた。 馬場の後を継いで開田を行ったのが義兄の野井倉甚兵衛
治水
有明の二大開田
蓬原開田
野井倉開田田尾橋より上流方、奥に見えるのは野井倉大橋