華族(かぞく)は、1869年(明治2年)から1947年(昭和22年)まで存在した近代日本の貴族階級。
概要神田男爵家(1911年)。(前列左より)長女英芝子(河津暹夫人)、四男盾夫、三女孝子、神田男爵夫人、四女文子、二女百合子(高木兼二夫人)。(後列左より)女婿河津暹、令孫祐孝(河津暹長男)、男爵、三男十拳、二男高木八尺、長男金樹。
版籍奉還が行われた明治2年6月17日(1869年7月25日)の行政官達第五四二号で公卿(公家の堂上家)と諸侯(大名)の称が廃され、華族と改められた[1][2]。この時以降華族令制定以前に華族に列した家を「旧華族」と呼ぶことがあった[3][4]。また旧公家の華族は「堂上華族」[5]、旧大名の華族は「大名華族」と呼ぶこともあった[6]。
旧華族時代には爵位は存在せず、世襲制の永世華族と一代限りの終身華族の別があったが[3]、明治17年7月7日に公布された華族令により公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵制が定められた。華族令と同時に制定された叙爵内規によりその基準が定められ、公爵は「親王諸王より臣位に列せらるる者、旧摂家、徳川宗家、国家に偉勲ある者」、侯爵は「旧清華家、徳川旧三家、旧大藩(現米15万石以上)知事、国家に勲功ある者」、伯爵は「大納言宣任の例多き旧堂上、徳川旧三卿、旧中藩(現米5万石以上)知事、国家に勲功ある者」、子爵は「一新前家を起したる旧堂上、旧小藩知事、国家に勲功ある者」、男爵は「一新後華族に列せられたる者、国家に勲功ある者」に与えられた[7]。またこの際に終身華族の制度は廃止された[3]。華族令制定後、家柄に依らず、国家への勲功により華族に登用される者が増加し、これを「新華族」と呼ぶことがあった[8]。
華族は皇室の近臣にして国民の中の貴種として民の模範たるべき存在という意味で「皇室の藩屏」と呼ばれていた[9]。
有爵者は貴族院の有爵議員(華族議員)に選出され得る特権を有した。公侯爵は終身任期で無給の貴族院議員となり(大正14年以降は勅許を得て辞職可能となった)、伯子男爵は同爵者の互選で選出されれば任期7年で有給の貴族院議員となることができた[10]。
昭和22年(1947年)5月3日に施行された日本国憲法の第14条2項に「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定められたことにより廃止された[11]。
旧華族(1869年-1884年)
華族誕生.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱スの原文があります。ウィキソースに岩倉公実記の原文があります。
版籍奉還と同日の明治2年6月17日(1869年7月25日)に出された行政官達第五四三号「官武一途上下共同ノ思召ヲ以テ自今公卿諸侯ノ称被廃改テ華族ト可称旨被仰出候事」により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称は廃され、これらの家々は華族に改められることが定められた[12][1][13]。
「公卿」とは内裏の清涼殿殿上の間に上がることが許された公家の堂上家(殿上人)のことを指し、「諸侯」とは表高1万石以上の石高がある各藩の藩知事(版籍奉還前の藩主)、つまり大名のことを指す[14]。華族創設に際して華族に編入されたのは公卿から142家、諸侯から285家の合計427家である[15]。この427家が「華族第1号」にあたるが、その数は慶応3年10月15日(1867年11月10日)の大政奉還時の公卿・諸侯の数と同数ではない。その時と比較して公卿は5家、諸侯は16家増加している[16]。
具体的には、公卿からは松崎万長の松崎家(慶応3年10月24日公卿)、北小路俊昌の北小路家(慶応3年11月20日公卿)、岩倉具経の岩倉分家(慶応4年6月公卿)、玉松真弘の玉松家(明治2年1月公卿)、若王子遠文の若王子家(明治2年2月公卿)の5家、諸侯からは中山信徴の中山家(村岡藩)、成瀬正肥の成瀬家(犬山藩)、竹腰正旧の竹腰家(今尾藩)、安藤直裕の安藤家(田辺藩)、水野忠幹の水野家(新宮藩)、吉川経健の吉川家(岩国藩)、徳川家達の徳川宗家(駿府藩)、徳川慶頼の田安徳川家(田安藩)、徳川茂栄の一橋徳川家(一橋藩)、山名義済の山名家(村岡藩)、池田徳潤の池田家(福本藩)、山崎治祇の山崎家(成羽藩)、本堂親久の本堂家(志筑藩)、平野長裕の平野家(田原本藩)、大沢基寿の大沢家(堀江藩)、生駒親敬の生駒家(矢島藩)の16家が加わっている[17]。
公卿の方を見ると、松崎は孝明天皇の寵臣だったことからその遺命で、北小路は地下家からの昇進で、岩倉具経は岩倉家の分家だが戊辰戦争での東征軍東山道鎮撫副総督としての功績で、玉松は山本家分家だが還俗後王政復古の詔勅文案の起草などにあたった功績で、若王子は山科家分家だが還俗後一家立てるのを認められたことで、それぞれ堂上家に列していた[18]。諸侯の方は明治初年に新たに藩を与えられた徳川宗家と徳川御三卿、また徳川御三家からの独立を認められた付家老家、戊辰戦争での加増や高直しで万石越えした交代寄合などであり、いわゆる維新立藩をして新たに大名になった者たちである[19]。