学習院女子中・高等科
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分25.8秒 東経139度42分48.9秒 / 北緯35.707167度 東経139.713583度 / 35.707167; 139.713583
学習院女子中・高等科(がくしゅういんじょしちゅう・こうとうか)は、東京都新宿区戸山三丁目にある私立女子中学校・高等学校。
設置者は学校法人学習院で、学習院幼稚園、学習院初等科、学習院中・高等科、学習院大学、学習院女子大学の系列校である。
高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校。
概要華族女学校。1889年。新家孝正設計婦人画報 1905年『華族女學校運動會』より。女袴は、開学時の学監・下田歌子が創案したものと言われている。
1885年(明治18年)、皇族・華族子女のための官立の教育機関として華族女学校の名で四谷に創立された、120余年の歴史を有する伝統ある女子校である。その後1889年(明治22年)、永田町に移転。平民子女の入学も許可され、1906年(明治39年)に学習院女学部、1918年(大正7年)に女子学習院となる。1947年(昭和22年)に私立学校として再発足し、現在に至る。
校門は赤茶色の鉄製で、学習院が1877年(明治10年)神田で開学された時に建てられた旧正門を1949年(昭和24年)に移設したものである。これは日本で最古の鋳鉄製の門で、国の重要文化財に指定されている。構内の中心には蔵書約10万冊の図書館があり、その周囲の緑の中に女子中・高等科の建物が点在する。女子大学との敷地を合わせると約2万坪となる。
教育施設としては、HRと特別教室を含む一般教室がA館からF館まで6棟、総合体育館(2018年より使用開始)、第2体育館、室内温水プール、総合グラウンド、テニスコート4面、バレーコート4面、バスケットコート1面がある。
女子中・高等科は共同で部活動や委員会活動を行うことが多く、運動会や文化祭なども中・高合同で行われる。またクラス編成も中・高共通で、1学年5クラス(東、西、中、南、北)である。高等科からの生徒募集は現在停止されている。
学習院高等科に比べて内部進学者が多く約7割が学習院大学へ進学するが、学習院女子大学(2026年4月に学習院大学に統合予定)へ進学する者は数名程度である。
一般的には「お嬢様学校」のイメージを持たれているが、いわゆる良妻賢母教育ではなく、自立心を尊重する校風である。その旨は同校出身ジャーナリスト・藤澤志穂子著『女子学習院と皇室』(新潮新書)に収録された卒業生らの発言からも窺える。
沿革青山の女子学習院。1936年。上から神宮外苑競技場、日本青年館、明治神宮相撲場、神宮球場、女子学習院
1885年(明治18年) - 学習院の女子科を廃止し、四谷区尾張町(現:初等科所在地)に華族女学校を創設。
1889年(明治22年) - 麹町区永田町に移転。
1906年(明治39年) - 華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称。
1918年(大正07年) - 女学部は青山に移転し、女子学習院となる。
1945年(昭和20年) - 米軍の山の手への空襲で校舎が焼失。目白の徳川義親侯爵邸を仮校舎とし、音羽の護国寺月光殿や境内の音羽幼稚園なども使用した[1]。