菩提
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は言葉を濁した曖昧な記述になっています。Wikipedia:言葉を濁さないおよびWikipedia:避けたい言葉を参考に修正してください。(2023年4月)

仏教用語
菩提, ボーディ
パーリ語Bodhi
サンスクリット語????
中国語
日本語菩提 , 悟り
(ローマ字: Bodai)
英語enlightenment
テンプレートを表示

菩提(ぼだい、: ????; bodhi、: bodhi)とは、サンスクリット語・パーリ語のボーディ(bodhi)の音写であり[1]、仏の正覚の智、さとり[2]、仏の悟りの境地[2][3]極楽往生して成仏すること[3]、悟りの智慧[1]などを意味する仏教用語[注釈 1]。bodhiの漢訳は智、道、覚[1][2][注釈 2]

菩提を得た者がであり、これを目指す衆生菩薩という[1]声聞菩提・独覚菩提・仏菩提の3種の菩提のうち、仏菩提は至高であるため無上正等覚(阿耨多羅三藐三菩提)とも呼ばれる[1][6][7]

俗に冥福の意味にも用いる[2][8]#菩提を弔うを参照)。菩提へ至る道については「解脱への道」を参照
初期仏教

ブッダの悟りの内容は、初期仏教においては四諦として体系化された[9]。実践の面では八正道三学)が説かれた[9]。悟りは、言語化されて理解される知的側面だけではなく、八正道や三学に示されるような実践を通じて初めて体得できるとされる[9]
初期の悟りについて

初期に作成された経典において、ゴータマ・シッダッタの悟りの内容が異なった伝わり方をしていて、はっきりと定まっていないのは、ゴータマ自身が自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁や相手に応じ異なった説き方をしたためで[10]、歴史的人物としてのゴータマは、臨終に際しても仏教というものを説かなかったとされている。また、彼が明示したのは、八正道の実践をする人を「道の人」と呼び、その道はいかなる思想家・宗教家でも歩むべき真実の道であり、それはこれまでのインド社会に現れたブッダたちの歩んできた道であったということともされている[11]。原始仏典の古い詩句では、古来言い伝えられた七人の仙人という観念を受け、ブッダのことを第七の仙人としていた[注釈 3]
初期の悟りにおける仏教の位置づけ

初期においては、ゴータマが説法することを「梵輪をまわす」と呼んでいた。これは古ウパニシャッドからきており、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があるとされる[注釈 4]

ウパニシャッドでは、「解脱」とは宇宙原理たるブラフマンと自己との合一を意味していた[13]。しかし、初期仏教では人間の理法を体得して、安心立命の境地に至ることが悟りであるとされている[10]。梵我一如を体得した古仙人たちの歩んできた道を歩んだとされるゴータマには、宇宙の真理を悟った人が説法をするという自覚があったが、その悟りの内容は、四諦という言葉によって体系化されているという状況にあることが示され[14]、大乗仏教に至ると、宇宙の真理(法)と一体になることを悟りとする宗派が生まれてきた[15]

ウパニシャドでは、ブラフマンとは宇宙の最高原理とみなされており、この最高原理が人格的に表象されたものがブラフマーであり、創造神とされていた。善い行いをした人が死後天上界に行くとした場合や、自島明におけるなんらかの主体性などの教説から、自然の中には還元しきれない何ものかを仮定している[16]梵天勧請の経文には、最高原理の人格的な表象として、この世の主ブラフマー神というものが出てくるので、ゴータマの悟達の境地と宇宙の最高原理を悟るということには、何らかの関係があると見ることができる。また、人格的な表象としての梵天による勧請の一段は、後世の追加とする見解もある[17]。ここにあげられている古い詩句は、心の中での出来事を現わしたものとされ、散文の説明は明らかに後世のものであるとされている[18]

ウパニシャッドの哲学の梵我一如の悟達とゴータマの悟達が大きく異なる点は、梵我一如におけるアートマンの存在が存在しないということである。しかし、この点についても初期の仏教には不確かな部分があり、「アートマン」は存在しないとは説いていないとされている。これは、アートマンを実体視しているウパニシャッドの哲学に対して仏教の側が反対しただけの教説にすぎない、というのがその理由となっている。ゴータマの悟りの内容に関しては、アートマンが存在するかどうかについての返答をゴータマが与えなかったものであるとされている[注釈 5][注釈 6]
涅槃について

涅槃については、無我的な無余涅槃をしりぞけ、たましいの最上の境地としての有余の涅槃にとどまって、活動してゆくことが目的であるとしていたとされる。小乗仏教の伝統説では無余涅槃に入ることが修行の目的であったが、ゴータマは無余涅槃に入るという見解は偏見であるとして排斥した。「たましい(霊)の最上の清浄の境地」のうちにあって、多くの人々の幸福のために、世間の人を憐れむために、清浄な行いを存続してゆくことが目的であるとした[注釈 7]
初期仏教における真人となった我とは

ゴータマの説法を「梵輪をまわす」と言うときは、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があり、「梵」という語と「ブラフマン」という語は深い関りがあるとされる[22]。ヒンドゥーにおいて世界創造神とされていたブラフマンというのは、当時最高の神と考えられていた。そして、梵天勧請の経文では、その神様がゴータマに説法を始めたとされる。ブラフマンとは、絶対原理であり、宇宙の根本原理のことであるけれども、一般の民衆にはなかなか理解しにくいから、それを人格神(世界の主である梵天)と考えたとする見解もある[23]。また、ブラフマンは大宇宙的概念であり、アートマンは小宇宙的概念とする見方もある[16]ので、後代になって、アートマンの小宇宙的概念が否定されるようになると、真理(ブラフマン)における大宇宙的概念も不明確なものとなったようである[注釈 8]

「仏」は本来「佛」と書くけれども、「弗」という字には否定の意味があり、人間でありながら、人間にあらざる者になるという意味があるとされる。水の例でいうと、水は沸点に達すると、水蒸気になるが、水蒸気というのはもとは水だけれど、水にあらざるものになる、というところが、人と仏との関係に似ているとされている[24][注釈 9]

ゴータマが実践していたのは、「つとめはげむ道」といって、自己を制することにつとめはげんだこととされている。ただ、それによってさとりを得たとかそういうことは書いてなく、自己を制することのうちにさとりがあるとしていたとされる[26]。人が佛となった転換点は、古来から言われている梵我一如の境地として、問われた時には意識にのぼる程度の通過点にすぎないとみなされていたようだ。自己を調御し、悪魔を寄せ付けず、清浄な行いを久しくし続けるということが、さとり「つとめはげむ道」(さとりの道)であるとされた。
初期の悟りの内容

あるバラモンに語ったとされる経文には、四種の禅定を完成して、明知が生まれたことが記されている。第四禅を成就したままにて生じた第一の明知においては、この宇宙が生成と消滅の幾多の宇宙期の過去を有しているものであることまでを知ることに至った[注釈 10]。その第一の明知によって、無明が滅び、暗黒は消滅して、光明が生じたとされている。第四禅を成就したままにて生じた第二の明知においては、超人的な天眼を用いることが出来るようになり、この世界に生存するすべての衆生が死にまた生まれる様を見ることが出来るようになり、それぞれの生存者の業(内面的な部分)についても明らかに知ることが出来るようになったとされる。さらに、諸々の汚れを滅する智に心を向けたが、その内容については説かれていないとされる[注釈 11]。そして、第四禅を成就したままにて生じた第三の明知においては、「解脱した(悟った)」という智が起こったが、単なる自覚ではなく、第三の明知とされている。また、過去現在未来にわたる阿羅漢(等正覚者と同じ)については、心に関して、心でもって知ることが出来るとされている[27][注釈 12]
悟りと慈悲

苦行の7年間慈心を修したという詩句が残されているので、慈悲の体現は当初よりゴータマの修行の中心的位置を占めていたとする見解もある[28]

カッサパは九次第定と六神通とに関してゴータマと等しいとゴータマから認められているとされたという[29]。『原始仏典II 相応部経典第2巻』 第5篇には、カッサパはアーナンダに対して自らの悟りの内容について確認をしている。そこには、空間の無限性や意識の無限性を超越した境地や、宇宙期、他心通、心の解脱と智慧による解脱とを達成したことが記されている。カッサパはバラモン出身で、ゴータマと出会ってから八日目に開悟したとされる[30]。仏教教団が定住生活に移行した後も、林野に住み、厳しい修行生活(頭陀行)を送っていたとされる。[注釈 13]
自覚としての悟りのいろいろ

サーリプッタが解脱をしたときに、ゴータマが「再びこの存在に戻ることはないと開悟したことを明言したのか」と問うたとき、「内に専心して、外の諸行に向かうときに道が出起して、阿羅漢位に達した」と語ったとされる。他に、「内に専心して、内に向かうと道が出起」、「外に専心して外に向かうと道が出起」「外に専心して、内に向かうと道が出起」という四通りがあるとされる[31]

聖者ごとに解脱の内容がいろいろであり、聖者ごとに解脱の内容はいろいろで、複数あったとされる[32]。ゴーダマが到達したさとりの境地は深遠で、弟子には到達しがたいという反省から、滅後弟子たちの時代になると、さとりの深浅に応じて四向四果の段階が考えられた[33]

在家信者においても師の話を聞いただけで悟ったという経文は多数あり、その中のある女性は、ある遊園に行った帰りに、ゴータマと出会い、「大いなる仙人のことばを聞いて、真実に通達し、まさにその場で、汚れのない真理の教え、不死の境地を体得しました。」と語ったとされる[34]
悟りと大悟について

ゴータマは、自然の中にて行っていた禅定中に、ブッダとなったとされている。そのときの悟りの自覚としては、「わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、頼って暮らすことにした」とされている。この場合の悟りとは、諸仏よりも上位に位置する最高原理(ダルマ)について悟ったということになる[35]。「悟り」に最も近いサンスクリットの原意は、「目覚めたるもの」という名詞であるとされるが、その反対語としては、「目覚めていない状態のもの」という語が考えられる。一般に、目覚めていない状態とは、肉体の目は開いていても、眠っているために、心の働きが外界の動きに反応しない状況であると考えられる。何ものかに覚醒することとなったゴータマの悟りは、それまでは見えていなかった諸仏よりも上位に位置する最高原理の働きを、眼前の風景の中や己自身のうちに感得することができるようになった、ということができる。

人格的な面を持つダルマについて悟ったことを大悟であるとするならば、理法を尊び、敬い、頼って暮らすことは、日常的なさとりの道を歩むことであるとみることができる[注釈 14][注釈 15][注釈 16][注釈 17]

修行過程における大悟の時期については、空無辺(物質宇宙空間の無限性や宇宙期の把握)や、意識無辺(過去現在未来の全体における無限の意識主体の総和の認識)の解脱を達成したあたりであると思われる。悟りに対する解釈がさまざまに異なるのは、無余涅槃を求めるグループと有余涅槃のうちにとどまるグループとに「大悟」と呼ばれる悟りが共通している感覚であるためであると思われる。
悟りと解脱について

暫時の解脱とは、世間的な禅定という意味を持つとされる。それを得た時に、一時的に諸々の煩悩から解放されているので、このように言う [36]。 解脱には、一時的な煩悩からの解放という面がある。『スッタニパータ』の例としては、1084?1087において、ある者には解脱を求めよと説いている。この部分の解釈によれば、解脱には修行の目的となる場合がある、ということができる。また、ある者には1088?1091において、解脱というものはないと説いている。この部分の解釈によれば、解脱には修行の目的とはならないという面がある、ということができる[37]

ゴータマが無余涅槃(肉体の死)に入るときに、第一禅から第四禅を2回繰り返したところを見ると、悟った後の毎日の心の状態を浄化するために、第一禅から第四禅の解脱の段階が用いられたとみることができる。そのため、第一禅から第四禅までの解脱は、個別的な修行者のさとりの段階を表すと同時に、より高度な解脱に心を変化させるための調心の作用を持つ禅定ということができる。このように、初期の経典においては、解脱というものに関しては、さまざまな用いられ方がなされている。
解脱を求める心の段階について詳細は「解脱への道#パーリ仏典での他の記載」を参照

撒餌経(中部経典第25経)では、第一禅から第四禅にいたり、そののち、まだいくつかの解脱の実現があり、九段階目で想受滅の境地にいたるとされている。他の経文において悟りについて述べた部分では、おおよそ、第四段階の禅定ののちに第三の明知に目覚め、悟りに至るとされている。しかし、この経では、第三の明知についてまでは言及されておらず、第四段階の禅定ののちに、さらに四つの解脱の段階を経たのちに想受滅に至る、というところで終わっている[注釈 18]

解脱の各段階においてゴータマは、いずれの段階も、マーラを盲目にし、マーラの眼を根絶し、悪魔が見えないところに行った修行僧の住するところであるとしている[注釈 19]

第一禅(初禅) - 双考経においてゴータマは、在家の当時、苦行の修行をする以前に、菩薩としての修行を始めていたことが語られている。出家してから、苦行しかしていないと思われがちであるが、ゴータマの意識の中では、菩薩として修行をしていたとされている。ゴータマは、菩薩としての修行中に、人間の中に常に湧き上がってくる思念について、善なる思いと悪なる思いのあるという観点から、対策を講じたとされている[38]。ゴータマは出家する前にすでに初禅の境地を体得していたとされている[39]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:109 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef