菟道貝蛸皇女
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目に含まれる文字「蛸」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。菟道貝蛸皇女
続柄敏達天皇皇女
出生不明
死去不明
配偶者聖徳太子
子女なし
父親敏達天皇
母親推古天皇
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菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ、生没年未詳)は、飛鳥時代の皇族。敏達天皇と推古天皇の皇女[1]。
聖徳太子のいとこであり妃となった[2]。だが、子もなく結婚後まもなく逝去したと思われる。同母弟に竹田皇子・尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、同母妹に小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)・田眼皇女(後の舒明天皇妃)・桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子及び来目皇子の妃か)らがいる。
『日本書紀』において敏達天皇7年に「菟道皇女」が伊勢神宮に任じられて、すぐに犯されたため解任されたと記されているが、菟道貝蛸皇女と同一人物であるかは定かでない[3]。
脚注[脚注の使い方]^ 「推古天皇」『世界大百科事典』平凡社。
^ 『日本書紀』敏達天皇五年
^ 『日本書紀』敏達天皇七年「春三月戊辰朔壬申、以菟道皇女侍伊勢祠。??池邊皇子、事顯而解」。「伊勢祠」は斎宮の前身と考えられている。なお、甘美媛が敵将によって強姦された際に「?」字が用いられているように、『日本書紀』において「?」は強姦の意味で用いられていた(金子幸子編『日本女性史大辞典』吉川弘文館、2007年の項目「強姦」)。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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