菊花紋章
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菊花章」あるいは「菊章」とは異なります。
菊花紋章を皇室の紋章と定める皇室儀制令12条(1926年(大正15年)10月21日付「官報」より)

菊花紋章(きくかもんしょう、きっかもんしょう)は、キク科キク属キク(菊)を図案化した菊紋のうち、特にの部分を中心に図案化した家紋のことである。菊花紋(きくかもん、きっかもん)、菊の御紋ともいう。単に菊紋(きくもん)と言う場合は、花を組み合わせるか、いずれかを図案化したものも含める。

大日本帝国憲法日本国憲法の原本を納めた箱の蓋にも刻まれている。
概要

古くから紋章として多く使用された花は蓮華(ハス)で、飛鳥寺を始め飛鳥時代の各地の遺跡から様々なデザインの蓮華文軒丸瓦の出土がある[注釈 1]

観賞用のキクは奈良時代中国大陸より伝えられた。高潔な美しさが君子に似ているとされ、と共に四君子とされた[1]

文学上は、『万葉集』には詠まれておらず、『古今和歌集』、『源氏物語』などから登場する。平安時代には、陰暦9月菊月と呼び、9月9日を「重陽節句」「菊の節句」とし、菊花酒を飲む「菊花の宴」「菊花の杯」で邪気を払い、長命を祈った。菊文様も吉祥文様として、好んで装束に用いられた。

鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用した。その後、後深草天皇亀山天皇後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに32弁の八重菊紋である十六葉八重表菊が皇室の紋として定着した[2]

江戸時代には幕府により厳しく使用が制限された葵紋とは対照的に、菊花紋の使用は自由とされたため一般庶民にも浸透し、菊花の図案を用いた和菓子仏具などの飾り金具が作られるなど各地に広まった。
図案

菊花紋は古くから、公家武家家紋、店舗の商標などとして豊富な種類が図案化され、変種も多い。主に、花弁の数、花弁の重なり(一重または八重)、表と裏(蕊(ずい、しべ)[3]があれば「表菊」、萼(がく)[3]があれば「裏菊」)、その他の意匠(輪郭を浮かせた「陰菊」、円形でなく菱形にした「菱菊」、水流をあしらった「菊水」、尾形光琳が考案した「光琳菊」、半円形に割った「割菊」「半菊」、井筒・井桁・文字・菊葉等と組み合わせたものなど)により表記される。ただし、文献により表現の仕方に違いがある。とりわけ皇室皇族関係の紋には、詳しく花弁の数に弁や葉(十六弁(太政官布告[4])・十六葉(皇室令))などの単位がつけられることがある。

例えば、10の花弁があるのなら「十菊」あるいは「十葉菊」、12なら「十二菊」あるいは「十二葉菊」である。花弁が一重なら「一重菊」、複数重なっていれば「八重菊」「九重菊」となる。中心に蘂が表現されるなど表を向いているものは「表菊」、萼を表現するなど裏を向いたものは「裏菊」である。これらを合わせて、16の花弁で裏を向いた八重菊であるのなら「十六八重裏菊」(十六葉八重裏菊)となる[4][5]

十葉表菊(じゅうようおもてきく)

十六葉一重菊

裏菊

陰十四葉菊

菊水

菊に一文字

天皇・皇室・国の機関の菊紋

皇室の菊花紋(十六葉八重表菊)

皇族の家紋(十四葉一重裏菊)

菊紋のうち、八重菊を図案化した菊紋である十六葉八重表菊は、天皇および皇室を表す紋章である。俗に菊の御紋とも呼ばれる。親王などの皇族は、この紋の使用が明治2年1869年)の太政官布告をもって制限され、1926年大正15年)の皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)13条により「十四葉一重裏菊」が皇族の紋章とされた。各宮家の紋は、この「十四葉一重裏菊」や「十六葉一重裏菊」に独自の図案を加えたもの(有栖川宮家・伏見宮家など)や、「十四葉八重表菊」を小さな図案に用いたもの(秩父宮家・三笠宮家・久邇宮家など)となっている。
戦前(明治・大正・昭和初期?第二次世界大戦)

明治元年2月9日1868年3月2日)、諸藩の宮門警衛に際して、旗・幕・提灯等に菊花紋章を使用するよう布達された。その後、「十六葉八重表菊」が公式に皇室の紋とされたのは、明治2年8月25日1869年9月30日)の太政官布告第802号である。同布告は、親王家の菊花紋として十六葉の使用を禁止し、十四葉・十五葉以下あるいは裏菊などに替えることを定めた。また、1871年(明治4年)6月17日の太政官布告第285号で、皇族以外の菊花紋の使用が禁止され、同第286号で、皇族家紋の雛形として十四葉一重裏菊が定められた。その後、1926年大正15年)に制定された皇室儀制令(大正15年皇室令第7号)第12条[6]、第13条[7] によって正式に定められている。

明治元年3月28日(1868年4月20日)の「菊御紋並禁裏御用等ノ文字濫用禁止ノ件」(明治元年太政官布告第195号)で、提灯陶器・貢物などに菊紋を描くことを禁止し、明治2年8月25日1869年9月30日)の「社寺菊御紋濫用禁止ノ件」(明治2年太政官布告第803号)で、社寺で使用されていた菊紋も、一部の社寺[8] を除き一切の使用が禁止された。その後、徐々に社殿の装飾や・提灯には菊紋の使用を許され、1879年(明治12年)5月22日の「明治二年八月菊御紋禁止ノ布告前神殿仏堂ニ装飾セシ菊御紋ニ限リ存置ヲ許ス件」(明治12年太政官達第23号)で、一般の社寺でも神殿仏堂の装飾として使用することが許されている。ただ、社寺以外の団体や個人による菊花紋章の使用は、引き続き厳しく制限された。
菊花紋章の取り締まりに関する主な法令・通達


菊御紋並禁裏御用等ノ文字濫用禁止ノ件(明治元年3月28日太政官布告第195号)

社寺菊御紋濫用禁止ノ件(明治2年8月25日太政官布告第803号)

皇族ノ外菊御紋禁止ノ件(明治4年6月17日太政官布告第285号)

官幣社社殿ノ装飾及社頭ノ幕提灯ニ限リ菊御紋ヲ用フルヲ許ス件(明治7年4月2日太政官達)

国幣社社殿ノ装飾及社頭ノ幕提灯ニ限リ菊御紋ヲ用フルヲ許ス件(明治12年4月2十2日太政官達第20号)

明治二年八月菊御紋禁止ノ布告前神殿仏堂ニ装飾セシ菊御紋ニ限リ存置ヲ許ス件(明治12年5月22日太政官達第23号)

菊御紋章ヲ売品ニ画ク者禁止方(明治13年4月5日宮内省達乙第2号)

菊御紋章取締ニ関スル件(明治33年8月18日内務大臣訓令第823号、明治37年8月9日内務大臣訓令第507号)

菊御紋章類似品取締ニ関スル件(大正13年9月25日内務省警保局警発甲第96号)

菊御紋章ニ関スル件(大正14年2月26日内務省警保局警発乙第296号)

菊御紋章類似図形取締内規(昭和4年11月21日内務省警保局訓第1368号)

上記各法令のうち、「菊御紋並禁裏御用等ノ文字濫用禁止ノ件」(明治元年3月28日太政官布告第195号)と「皇族ノ外菊御紋禁止ノ件」(明治4年6月17日太政官布告)は、法律に匹敵する法令として、取り締まりの法的根拠とされた。この2つの太政官布告は、いずれも1947年(昭和22年)12月31日限りにおいて失効している[9]。なお、皇室儀制令についても、「皇室令及附属法令廃止ノ件」(昭和22年5月2日皇室令第12号)により廃止されている。

菊は「菊花紋章」から皇室の代名詞とされ、幕末流行り歌にも「(=皇室)は咲く咲く、(=徳川将軍家)は枯れる」と歌われている[10]


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