菊池桃子
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声優・アイドルグループ8bitBRAINのメンバー「菊地桃子」とは別人です。

菊池 桃子
2017年、文部科学省にて
基本情報
生誕 (1968-05-04) 1968年5月4日(56歳)
出身地 日本東京都品川区
学歴日出女子学園高等学校
戸板女子短期大学卒業
法政大学大学院政策創造研究科政策創造専攻修士課程修了
ジャンル映画
ドラマ
アイドル歌謡曲
シティポップ
AOR
職業女優
歌手
活動期間1983年 10月-
レーベルバップ
(1984年 - 1991年)
エピックレコードジャパン
(1993年 / 2008年 / 2014年)
事務所ヴァイサイト(個人事務所)
公式サイト菊池桃子 Official Website

菊池 桃子(きくち ももこ、1968年〈昭和43年〉5月4日[1] - )は、日本女優歌手タレント[2]大学教員[2]ナレーター。ヴァイサイト(Weisheit。個人事務所)所属。愛称は「桃ちゃん」。
略歴
生い立ち

東京都品川区出身[3]。桃子という名前の由来について本人は、「""は、古来中国では不老長寿をもたらす実であるという伝説があり、とても大切な果物とされていたことに因み、みんなから大切にされて愛されるようにという意味で名づけられた」と話していたことがある[3]。3歳の時に埼玉県大宮市(現・さいたま市)に移るが、小学校入学時に品川へ戻る[3]。両親は共に北海道出身(父は札幌、母は知床)。
歌手デビューまで

菊池の叔母が青山で飲食店を経営しており、レジ横に家族や親族の写真を飾っていた。1982年の夏、たまたま来店していた音楽事務所トライアングル・プロダクションの関係者がその中の一枚、菊池が微笑んでいる写真に目を留め、その場で菊池の名前や年齢、事務所に所属していないかなど身上を聞いたという。叔母を介し、後日スカウトされる。芸能界入りに関して、菊池の父は学校に行かせること・学業に支障が出ないスケジュールであることを条件とし、本人の希望を優先に承諾した[4]

1983年春、映画『パンツの穴』のオーディションに合格。芸能活動をスタート。11月、学習研究社のアイドル雑誌『BOMB』の姉妹誌『Momoco』のイメージガールとなり、創刊号の表紙を飾る。

1984年3月17日、映画『パンツの穴』公開。ヒロインを演じて注目される。同年4月21日、VAPより『青春のいじわる』でアイドル歌手デビュー。デビュー時のキャッチフレーズは「It's Real Fresh 1000%」。
トップアイドル期

ふつうの女の子といった親しみやすい庶民的魅力を持ったアイドルとして幅広い人気を獲得し[5]、1984年にリリースした『青春のいじわる』『SUMMER EYES』『雪にかいたLOVE LETTER』の3枚のシングルをヒットさせ、1984年の日本レコードセールス大賞女性新人賞受賞。ブロマイドの年間売上も1位となる。また、同年9月リリースのファーストアルバム『OCEAN SIDE』はオリコンアルバムチャート1位となった[6]。1981年に設立されたバップレコードの売上げを大きく伸ばし[6]、テレビ局、映画会社はポスト聖子として1985年の超目玉アイドルと見なし[6]テレフィーチャー卒業』の製作を決め[6]東映小柳ルミ子級のギャラを提示し主演映画の交渉に当たった[6]。また資生堂江崎グリコ日立製作所など大手企業のCMキャラクターにも起用され、雑誌などとのメディアミックス戦略により一気にトップ・アイドルへと駆け上った[7]。大手プロダクションの手によらない雑誌メディア出身の菊池が成功したことは1980年代のアイドル地図に変動を起こし、斉藤由貴中山美穂など雑誌やドラマをきっかけに歌の世界へ進出するアイドルの先駆的存在となった[8]

1984年12月、第26回日本レコード大賞新人賞受賞。ただし最優秀新人の選考対象とされることについては全て辞退した(辞退理由は「気持ちの整理が付かないから」というものだった。実際は菊池のレコードを製作販売していたバップレコードは日本テレビ系列のための諸事情と言われる[信頼性要検証]。授賞式は海外・サイパンでの仕事のため欠席、ファンへの感謝の手紙がバップ社員より代読された。この年、最優秀新人賞に選ばれたのは岡田有希子)。

1985年に行われた日本武道館でのコンサートは、武道館においては当時の時点で最年少公演記録となり[9]ビートルズの公演の観客動員数を抜き(二万二千人超)[10]九段下駅から日本武道館へと長い行列が出来、話題になった。入場できなかった観客も一万人超とされ伝説となっている[11]。同時期の『ザテレビジョン』誌上のタレント人気投票の歌手部門でも1位となるなど、トップアイドル歌手として人気を博した[12]。1985年のアーティスト別年間シングルセールスでは中森明菜チェッカーズ安全地帯に次ぐ第4位となった[13]

1985年2月発売の4枚目のシングル「卒業-GRADUATION-」から1987年3月発売の「アイドルを探せ」まで7作連続オリコンチャート1位の売り上げを記録した。この記録は、1985年から87年にかけてオリコンチャートの上位をおニャン子クラブ関係の曲が独占する中での記録である。

ラジオパーソナリティとしても人気があり、1985年10月から1987年3月までTBSラジオ文化放送ニッポン放送の在京3局で自身がメインパーソナリティーのレギュラー番組があった。それぞれ曜日ごとに分かれていたため、月曜から日曜まで毎日、菊池の番組があった。雑誌『ラジオパラダイス』のパーソナリティ人気投票では1985年から1987年までベスト10内にランクインしていた。ラ・ムー 結成後も、1988年4月まで『菊池桃子の青春トライアングル』(TBSラジオ)、1988年10月まで『青春ファンタジア 菊池桃子 あなたと星の上で』(ニッポン放送)が放送されていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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