菊池忠三郎
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政治家の「菊地健次郎」とは別人です。
菊池謙二郎

菊池 謙二郎(きくち けんじろう、1867年2月23日慶応3年1月19日) - 1945年昭和20年)2月3日)は、日本の教育者、歴史研究者。号は仙湖。正岡子規秋山真之夏目漱石らとの交友、藤田東湖を中心とした水戸学の研究で知られ、衆議院議員も務めた。
出身と上京まで

1867年2月23日(慶応3年1月19日)水戸藩士にして水戸支藩石岡藩家老[1]、後、石岡藩権大参事[2]の菊池慎七郎、母、萬[3](まむ[4])の二男として水戸市[5]天王町[6]に生まれる。謙二郎に私淑した前田香径[7]は、慎七郎を無念流の剣客とし[8]、大坂町無念流の剣道の名家ともされる[9]

1808年(文化5年7月22日)58歳で没した彰考館27代総裁[10]菊池平八郎重固(号は南洲)の子、平八郎重施の子に、爲三郎重善、輿七郎重徳がおり、二人は無念流の達人、先祖は鈴木とされる[11]。謙二郎も、爲三郎重善が叔父(ママ)と認めたとされ[12]、七代前の祖先は鈴木とし[13]、正しく伯父とした資料もある[14]

水戸藩では武道に優れた者が独立し生家の姓を名乗る事が許され、その一人、弘道館の撃剣の教師に「菊池謙二カ、菊池忠三カ君の父君、菊池剛藏君」がいたとされ[15]、藩指南役で二百石取りだったともされる[16]。町名等の誤記/誤植もあるが、資料[3][17]の抜粋要約を示す。菊池剛蔵(重衛?)は菊池家出身だが長子ではなく、俸禄なしで分家するところを水戸候に認められ、尾張藩士永井家養子となった後、水戸藩士郡司孝介次女、萬18歳を妻として水戸藩士となり一家を創設、天王寺町に住む。中根雪江も、水府藩菊池爲三郎の弟で尾藩永井氏の養子の永井剛蔵を記している[18]。天狗党に属し、慶応2年11月18日、萬が身重の時、御徒目付1人押1人諸生60人の捕手に捕縛、評定所へ連行、御用長屋へ禁錮幽閉され、満3年後、自由の身となる[19][20]。この間、謙二郎が誕生。剛蔵の慎七郎への改名を示す資料[19]には、家老職までの記述はないが、大参事菊池慎七郎穂積重徳と記す資料[21]もあり、矛盾はない。謙二郎も鈴木姓は穂積氏より出たとの伝承を記している[13]桜田門外の変の関係者、菊池剛蔵は別人である。徳川昭武の訪欧に随行[22]、後に茨城県の酪農畜産の発展に貢献した[23]菊池平八郎は、資料[3]によれば伯父である。「平八郎を慎七郎と書いている本もある」とする本[24]のように、平八郎を慎七郎と混同した例もある。姉はせい、慶応2年5歳[3]、維新以降は不明。兄は直一郎、2歳年上[3]。世事に関わらない温厚な人とされる[25]。弟は忠三郎、明治2年3月22日生[26]、岳父は鈴木萬次郎。後掲。妹はやす、明治3年生、養子平八は後藤新平の次男[27]。子は、呉一:明36 8生、揚二:明39 2生、かをる:明43 8生[28]。1869年(明治2年)石岡へ転居。父親の出獄後間も無い石岡藩付家老、大参事就任による[3]。1872年(明治5年)竹原村[3]または大竹村[4]へ転居。父親の辞職による。餓鬼大将となるが優秀な成績を得る[3]。1881年(明治14年)水戸へ転居[3][4]栗田寛が前年に大坂町の自宅に開いた[29][30]家塾、輔仁学舎で学ぶ[31][32]

1882年(明治15年)茨城中学校(翌年、茨城第一中学校、後に水戸中学校に改称)入学。校内第一の駄々っ子[26]、きかん気とされ、同級生中最年少ながら唯一人体操で百点を得る。演説を稽古するが、演説傍聴禁止の校則に触れる。文芸雑誌に時代に先駆けカナ交じり文での投稿を続ける[30]

1884年(明治17年)二学年終了後退学、上京、共立学校へ転学[1][33]。伝記、森田美比『菊池謙二郎』[34]がある。謙二郎が校長を務めた、旧制水戸中学校、現茨城県立水戸第一高等学校ホームページ[4]に略歴の記載がある。
交友

1884年(明治17年)5月、共立学校(二級[35])に入る。後、正岡常規君と同級だったが、在学期間4箇月で同級生すべてを知り得ず、秋山(真之)君と同級だったか判然記憶しないと記す[36]

9月、共立学校の同級より、正岡子規と二人だけ[36][37]大学豫備門に進み、子規と親しくなる。大学教授松村任三方に下宿[36]。同年2月の松村の住所は牛込区若宮町一番地[38]

1885年(明治18年)3月頃、神田猿楽町板垣方で子規、清水則遠[36]、井林廣政と共に下宿[39]。後、教室では温しい子規が下宿での知友に対しては遠慮会釈がないばかりか、同郷の友人と腕の捩じ合、喉の締め合をした事、子規の頼山陽との詩作競争、子規が始終敬服していたのは漱石であった事等を記す[40]。夏、子規の帰省中、箱根へ脚気療養に行く清水に、井林等と同行[41]。8月2日、子規が箱根の清水宛に、松山の鯛料理を絶賛「殊に菊池兄に至てハ此天地に生を受ケ」て以来その味を知らず、之を食はしめは一嘗三嘆のみならざるべしと書き、書状を謙二郎に見せるよう記す[42]

9月、子規と共に試験に落第、進学してきた秋山真之と同級となる[36]。後、漱石も含めた落第の原因は数学ともされる[43]


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