菊池 平八郎(きくち へいはちろう)は、江戸時代、水戸藩において代々襲名された名跡である。歴史学者、水戸学者で彰考館総裁も勤めた、菊池南洲平八郎重固、幕末に徳川昭武の渡欧に随行した菊池平八郎など、菊池平八郎を襲名した直系の人物のほか、その近親者についても記述する。原則として、人物ごとに項目を分け、知名度や文献での頻出度に従い、姓名号諱、または姓名諱の順に示す。 1717年(享保2年)[1] - 1779年(安永8年) 号は南汀、幼名は初之助[2]、初名は方、諱は矩[3][2]、字は子正[4][2]。通称平八ともされる[4][2]が、後述のように、子の平八郎も平八との記録がある。 もと鈴木氏、父重吉故あって菊池氏を冒す[3][1]。後述の4代後の子孫、菊池謙二郎は7代前が鈴木とする[5]。母は潮田氏、妻は岡野氏、男子4人[3]。 水戸学では朱舜水?安積澹泊の流れを汲む朱子学系統に属す[6]。早くから直接安積澹泊に学び、澹泊に初之助と呼び捨てにされる[2]。南洲菊池平八郎重固の師[6]で父[7]。彰考館に入り、 1751年(宝暦元年) - 1808年(文化5年) 号は南洲[4]または、紫泉[1]。名または諱は重固(しげかた・じゅうこ[9])。字は子厚[4]または子原[6]、造酒蔵と称し、通称は平八郎、平八ともされる[10]。初め、造酒蔵と称し、後、平八郎に改名[7][1]。母、岡野氏[1]。 人物について「君性忠厚、沈勇、少語言」の評がある[6]。 1751年(宝暦元年)、水戸に生まれ[7]、前項、父、南汀のほか、やはり朱子学派で、藤原惺窩?林羅山の流れを汲む柴野栗山に師事する[11]。書及び撃剣を善くす(ママ)[7]。 1779年(安永8年)彰考館に入る[6]。 1797年(寛政9年)、藤田幽谷の書を、政庁に坐した藩主徳川治保が、菊池平八に読ませたとされ[12]、すでに高い地位にあり、重ねて通称が平八でもあった事が示される。 1798年(寛政10年)2月25日、第27代彰考館江館総裁に就任、俸禄150石[10]、江戸詰[13]。所謂御用調役ナル者ハ、文公ノ時始テ置キ、菊池平八カヲ以テ之ニ任ズ。然ドモ菊池ハ大抵中奧ニ出入シ、公ノ親書草案ヲ掌リ、嘗テ政府ニ在ラズ。菊池歿スルニ及ビ、其ノ職ヲ廢ス[14]。1766年(明和3年)?1805年(文化2年)が、大日本史の編纂にも力を入れていた治保の藩主時代である[15]。 1799年(寛政11年)5月4日、公子泰之允保右朝傳と為り留主居物頭班[16]。 1802年(享和2年)、立原萬、菊池平八に与フル書[10]。 1804年(文化元年)12月22日致仕、同5年7月22日没、年58[17]。小石川常樂院、父南汀の隣に葬られる[4][7]。後世、墓は水戸市常磐墓地、現常磐共有墓地の父南汀の墓の隣に移されたとされる[1]。著作に『鎌倉英勝寺住持職事考』[7]。
菊池南汀平八郎矩
1741年(寛保元年)、大日本史の編集に関わる[8]。
1767年(明和4年)、班新番、明和8年、大番、翌年、近習番となり、江戸邸で働く[3]。
1779年(安永8年)7月15日、没、63歳、小石川常樂院に葬られる[3][4]。後世、墓は、水戸市常磐共有墓地、現常磐共有墓地に移されたとされる。墓碑に友人長久保玄珠撰、孝子重敏建とある[1]。
菊池南洲平八郎重固