きく ようこ
菊 容子
本名菊池 洋子
別名義菊池 洋子(本名ならびに旧芸名)
生年月日 (1950-09-26) 1950年9月26日
没年月日 (1975-04-29) 1975年4月29日(24歳没)
出生地 日本 神奈川県横浜市
死没地 日本 東京都新宿区
職業モデル、女優
ジャンルテレビドラマ、映画、舞台
活動期間1959年 - 1961年
1965年 - 1975年
主な作品
テレビドラマ
『でっかい青春』
『好き! すき!! 魔女先生』
テンプレートを表示
菊 容子(きく ようこ、1950年9月26日[1][2][3] - 1975年4月29日[1][4])は、日本の女優。本名、菊池 洋子[4][5][2][6][7][3]。
神奈川県横浜市出身[1][2][5][6][7][3][8]。聖和学院高等学校卒業[6][7]。東京俳優生活協同組合に所属していた[2][4]。 2歳の時に富士フイルムのモデル[9]、6歳の頃から少女雑誌『少女クラブ』(講談社)の表紙モデルで芸能キャリアをスタート[1][5][10]。1959年の映画『城ヶ島の雨』で子役デビュー[2][3][11]。中学に進学した時に一時芸能活動を止めるが、中学3年生の秋にNHK主催の新人オーディションで2位合格となり[9]、後に女優業に転向する[2][6][7][3]。この時、本名の菊池洋子ではさんずいが並ぶため「水に流れる」という意味で縁起が悪いという意見があり、菊 容子の芸名に決まる[2]。 6歳の時から若柳流の舞踊を習い、15歳でその名取となった[9][6]。 1968年、竜雷太主演『でっかい青春』第26話より、女生徒・丸山しぐれ役でレギュラー出演[2]。当時の紹介記事では「この番組に出演したおかげでクラスメイトがたくさんできた感じです。学生生活の楽しさをドラマで味わいたい」と述べている[2]。1971年、朝日放送(ABC)[注 1]で放映したドラマ『好き! すき!! 魔女先生』のヒロイン・月ひかる役を務め、その他ドラマ・映画・舞台を中心に活躍した[6][7][1]。『魔女先生』の原作者である石ノ森章太郎とはそれ以前より面識があった[12]。1972年より、NHKのクイズ番組『連想ゲーム』の回答者としてレギュラー出演[4][7]。 1975年4月29日午前3時ごろ、新宿コマ劇場での水前寺清子主演舞台公演「姉ちゃん仁義」出演期間中に、東京都新宿区諏訪町149(現高田馬場1丁目)の自宅マンションで、交際していた俳優(当時23歳)に電話機のコードで首を絞められて殺害された[1][13][14]。24歳没。深夜のうちに電話で会社役員の父親に「9時に起こして」と依頼していたモーニングコールに応答がなかったことから事件が発覚した[4][10]。加害者は売れっ子になっていた菊が浮気していると思い込んでおり、電話で楽しそうに浮気相手と話していると思って凶行に及んだが、その相手は父親だった。加害者は変身ものや特撮ものに脇役で出ていた駆け出しの俳優で、別れ話のもつれから犯行に及び、自殺未遂後に逮捕され、裁判で懲役7年が言い渡された。 自身の性格について、1968年の紹介記事では「慌て者」と答えている[2]。 将来の夢として1966年の紹介記事では「お芝居を続けていたい。将来的には時代劇や舞台に立ちたい」と答えており[5]、1973年の紹介記事では「時代劇で颯爽と剣を振るう役」をやりたい役柄に挙げている[3]。 人物像について、「勘が鋭くて頭の回転が速く、勝ち気で意志が強く、明るく屈託のない子」(連想ゲーム プロデューサー談)[11]「ピストルや刀など武器が好きで、気取ったり冗談が好きだったりするけど寂しがり屋なところもある」(女優・梅田智子談)[11]「内心は頑固で一途なところがある」(秦野章談)と言ったところがあったという[11]。 じゃじゃ馬なところから「ジェジェ」と言う呼び名があった(主に梅田智子らがこう呼んでいた)[11]。
来歴
人物
出演作品
テレビドラマ
怪獣マリンコング(1960年、CX) ‐ 矢田ひとみ ※菊池洋子名義
銀婚式前夜
青春とはなんだ(1965年、NTV)
草暦
判決 第184回 「妻の座」(1966年4月20日、NET)[15]
新忍者部隊月光 第125、126話「ミルク博士作戦 - 前・後篇 - 」(1966年、CX) ‐ 幻22号
太郎