菊亭 脩季(きくてい ゆきすえ/ながすえ、安政4年5月6日〈1857年5月28日〉 - 明治38年〈1905年〉10月8日[1])は、日本の政治家、公家、華族。貴族院侯爵議員。立憲政友会幹事長。従一位。東山天皇の男系六世子孫。 安政4年(1857年)5月6日、関白鷹司輔熙の末子として生まれる。母は一条崇子(一条忠良の娘)。叔母(実父・輔熙の妹)の美津子が今出川実順の正室であった縁から、元治元年(1864年)、今出川家(この時菊亭に改姓)を嗣ぐ。菊亭の姓は、菊を愛し数多くの菊を栽培していたため世人に菊亭右大臣と呼ばれていたことに因む。 明治2年(1869年)2月、従四位下に進み、東上して昌平黌に学び、明治5年(1872年)、東京に出て慶應義塾に学ぶ。 明治11年(1878年)3月、開拓使御用掛に任ぜられ、札幌育種場
経歴
1890年(明治23年)2月、帝国議会開設に伴い貴族院侯爵議員に就任[1]。明治35年(1902年)6月、従二位に陞る。立憲政友会幹事長に就任し、従一位。明治38年(1905年)10月8日病没。享年49。ほか、三条実美、蜂須賀茂韶らと共に華族組合農場・雨竜農場創立にも尽力。 現在の札幌市白石区菊水に、その名が残っている。これは菊亭の「菊」という字と豊平川の水を結びつけたことが由来である。明治20年(1887年)、脩季が、札幌育種場より当時の上白石村の桑園5町歩を3年間の条件で無償貸与され、ホップ園を開いたことによる。ホップ園は明治22年(1889年)には栽培を断念している[2]。 権中納言今出川実順の養嗣子。実父は関白鷹司輔熙。実家の鷹司家は、実兄の輔政が早世し、煕通が養子に迎えられて跡を継いでいた。よって、閑院宮直仁親王の第四王子で鷹司家を継承した鷹司輔平の血統は庶長兄徳大寺公純が継いだ徳大寺家と菊亭家に引き継がれることとなった。 日本の爵位
札幌市菊水との関連
家族・親族
系譜
東山天皇 中御門天皇 桜町天皇 桃園天皇 後桃園天皇
直仁親王 典仁親王 光格天皇 仁孝天皇 孝明天皇 明治天皇 大正天皇 昭和天皇 太上天皇 今上天皇
鷹司輔平 鷹司政煕 鷹司政通 鷹司輔煕 鷹司輔政
菊亭脩季
係累縁者が多数に上るため、東山天皇以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。
栄典
1884年(明治17年)7月7日 - 侯爵[3]
1887年(明治20年)12月26日 - 正四位[4]
1902年(明治35年)6月20日 - 従二位[5]
脚注[脚注の使い方]^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』15頁。
^ サッポロビール広報部社史編纂室 編「道産ホップ栽培の中断と再興」『サッポロビール120年史 : since 1876』サッポロビール株式会社、1996年3月10日、114頁。
^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
^ 『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。
参考文献
衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
鷹司家
菊亭家
皇別摂家
参考文献
⇒三田の政官界人列伝
先代
叙爵侯爵
菊亭家初代
1884年 - 1905年次代
菊亭公長
表
話
編
歴
菊亭家当主
兼季 - 実尹 - 公直 - 実直 - 公行 - 実富 - 公富 - 教季 - 公興 - 季孝 - 公彦 - 晴季 - 季持 - 経季 - 公規 - 伊季 - 公香 - 公詮 - 実興 - 誠季 - 公言 - 実種 - 尚季 - 公久 - 実順 - 脩季 - 公長 - 実賢 - 直子 -