菊タブー
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菊タブー(きくタブー)は、日本天皇皇室に対する批判やパロディーを容認しない禁忌タブー)、及び直接的暴力も含む圧力の総称(通称)。皇室の紋章が菊花紋章)であることから、婉曲的にこう呼ばれる。
概要「最高敬語」も参照

明治維新以後第二次世界大戦までは、天皇や天皇制に対して批判的な言論は、体制批判として旧刑法施行以後不敬罪規定で取り締まられ、社会的にも強い排除圧力があった。また、後に治安維持法が制定され、国体(天皇制)を否定する活動について罰せられることとなった。

戦後は、言論の自由が広く認められ、刑法から不敬罪が削除されたことで、天皇や天皇制に対して批判的な言論であっても、法的に禁圧されることはほぼなくなり、社会的にも批判に寛容になった。しかし、右翼団体やその構成員が、暴力的な手段を用いてこれを封殺しようとする事件をたびたび起こした。暴力被害に遭うことやトラブルになることを恐れてマスメディアなどは、天皇や天皇制に関する批判的言論を控える(自主規制する)ようになった。なお出版業界などにおいては天皇に係る自主規制の存在やその基準を示すものなどは特に公にはされていないが、放送業界においては、例えば日本民間放送連盟放送基準第2章(7)「国および国の機関の権威を傷つけるような取り扱いはしない。」の解説において「国の象徴としての天皇もここに含まれる。」としている[1]。この自主規制を指して、天皇や天皇制に対して批判的な言論は、マスメディアにおけるタブーの一つとされ、婉曲的に菊タブーと言われるようになった。

天本英世は天皇制と昭和天皇戦争責任を不問にしようとする勢力(菊タブーを守ろうとする風潮、自民党政権、文部省)を批判して「テレビの収録で言及すると、その部分は全てカットされる。こういう事をしている限り日本人はいつまでたっても自立できない」と述べた[2]。また八巻正治は著書中で「日本は相当に自由の国だと一般には理解されていますが、こと天皇制の問題になると状況は異なります。相当の知識人でさえも口を堅く閉ざしてしまいます」[3]と述べている。
世相と背景詳細は「天皇制ファシズム」を参照

大日本帝国憲法下において、天皇は「現人神」とされ、天皇に対するあらゆる批判的な・また茶化したりする言動は不敬罪が適用され逮捕されたほか(行幸に対する最敬礼で、ズボンの前ファスナーを閉じ忘れていただけで“不敬”とされ連行されかけた例もある[4])、治安維持法などによって国体(天皇制)を否認する運動が取り締まりの対象となったため、天皇や皇室に対しては報道の自由も含めほぼ議論ができない状況にあった。

1945年(昭和20年)の敗戦後、占領政策に基づく民主化が行われ不敬罪・治安維持法が廃止されたことにより、それまで論議されることのなかった天皇制の是非・戦争責任に関する議論が発生し、天皇制の批判・存廃に関する論説を掲げる雑誌も出版された。「ポツダム宣言」および「日本の降伏文書」も参照

ただし連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は天皇について直接問責しようとはせず、むしろ占領政策に利用しようとした[5][6]

GHQの民主化政策の下、右翼指導者の公職追放団体等規正令により、停滞していた右翼団体だが、逆コースにより次々と復活、労働組合や市民運動のデモやストライキに対して脅迫、暴力などの実力行使による抗議活動を展開する団体も現れた。1960年(昭和35年)10月に浅沼稲次郎暗殺事件1990年(平成2年)には長崎市長銃撃事件など、右翼テロも出現している。
右翼のテロと出版界その他の自主規制

右翼団体による右翼テロの標的は政治家のみに留まらない。

1960年(昭和35年)、深沢七郎の小説「風流夢譚」が『中央公論』12月号に掲載された。その小説の中における皇太子妃が民衆に殺される部分や民衆が皇居を襲撃した部分が描かれたことなどについて、一部の右翼団体が不敬であるとして中央公論社に対して撤回と陳謝を要求。右翼を名乗る少年が1961年(昭和36年)2月1日に嶋中鵬二・中央公論社社長宅に押し入り、家政婦1名を殺害、嶋中鵬二の妻に重傷を負わせる事件を起こした(嶋中事件)。この後、中央公論社は「風流夢譚」の掲載自体が誤りだったとし、世間を騒がせたとして全面的な謝罪を行った。後に中央公論社は、発刊予定の『思想の科学』天皇制特集号(1962年1月号)を自ら発売停止にしている。

1980年(昭和55年)には月刊誌『噂の眞相』が皇室ポルノ記事(今で言うフォトコラージュ)を掲載したことに対し一部の右翼団体が印刷所を襲撃したり、広告主に抗議活動を行なったりしたが編集長が謝罪文を掲載することで決着。

同じく1980年に東映の映画『徳川一族の崩壊』での孝明天皇暗殺の描写が荒唐無稽で不敬だとして、一部の右翼団体が街宣車で東映に押しかける抗議活動を展開。プロデューサーが平安神宮泉涌寺にお参りすることで手打ちとなり、公開されたが、興行不振に加えてこの件が原因で東映の大作時代劇路線は打ち切りとなった[7]。再上映では一部を除き孝明天皇暗殺シーンはカットされ、ソフト化もされていない[8]

1982年(昭和57年)から1985年(昭和60年)にかけて製作された連作版画「遠近を抱えて」全14点(大浦信行・作)の一部に、昭和天皇の写真がコラージュとして用いられていた為、右翼団体から“不敬である”として抗議が行われ、所蔵していた富山県立美術館は全点を非公開化・売却し、図録も焼却処分した昭和天皇コラージュ事件が起こり、大浦は“作品を提供させながら不当”と美術館を提訴し最高裁まで争うも敗訴した。

1983年(昭和58年)に桐山襲の小説「パルチザン伝説」が『文藝』10月号に掲載された。作品は左翼による昭和天皇へのテロ計画を描いたため、『文藝』を発行する河出書房新社に右翼団体街頭宣伝車が大挙して押しかけた。右翼団体の抗議が「パルチザン伝説」掲載直後ではなく、『週刊新潮』が「天皇暗殺」を扱った小説として嶋中事件を引き合いに出した記事を掲載したのと同期していたのを桐山は問題にしている。

タレントのタモリは昭和天皇の物真似を持ちネタの一つにしていた。1985年5月14日、作家の筒井康隆の全集の完結記念パーティーでも昭和天皇の物真似を披露し[9]、最後に「皇太子にまだ渡さぬ」という台詞をオチにした。パーティーを終え、二次会、三次会でも昭和天皇のネタを続け、 この模様は翌週の「週刊読書人」に掲載された。それ以降、タモリは一部の右翼から脅迫を受けることとなり、最終的には所属事務所、田辺エージェンシーの社長田邊昭知が半監禁状態で一部の右翼から抗議される事態に至った[10][11]。筒井康隆もエッセイ「笑犬樓よりの眺望」(『噂の眞相』1985年8月号掲載分)や日記『日日不穏』にこのパーティーの様子を書いているが、差し障りのある名詞を伏字にしている[10][12]。この後、6月26日に筒井が製作する映画『スタア』に昭和天皇役でオファーがかかったが、タモリ側の希望でアドルフ・ヒトラーに変更になった[13]。以降、タモリは昭和天皇ネタを封印した[14]

1988年(昭和63年)にはメディア批評誌『』が、テレビ朝日が作成した天皇崩御Xデーに関する内部資料をスクープしたところ、右翼団体から「不敬である」と抗議されてテレビ朝日と創出版が入っているマンションに街宣がかけられた。

1992年(平成4年)5月には、ロック調にアレンジされた「君が代」をCMに使用しようとした日本家庭教師センター学院の学院長・古川のぼるに対し、右翼団体「仏心団」から脅迫状と“自殺勧告状”が送りつけられた。CMは放送局の自主規制により中止される。


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