菅_(川崎市)
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 神奈川県 > 川崎市 > 多摩区 > 菅 (川崎市)


町丁
京王稲田堤駅 南口(2016年10月)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度37分59秒 東経139度32分05秒 / 北緯35.633度 東経139.534767度 / 35.633; 139.534767
日本
都道府県 神奈川
市町村 川崎市
行政区多摩区

人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[1]
 人口13,007 人
 世帯数7,194 世帯

面積[2]
 0.762625184 km²
人口密度17055.56 人/km²
設置日1984年昭和59年)11月5日
郵便番号214-0001[3]
市外局番044(川崎MA[4]
ナンバープレート川崎
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菅(すげ)は、神奈川県川崎市多摩区にある地名。現行行政地名は菅1丁目から菅6丁目で、住居表示は実施済み区域[5]。菅村、稲田村、稲田町および分離する前の各地名の歴史についても記述する。
地理

川崎市多摩区の北西部に位置し、西側は稲城市と接する。中心を南武線が通り北側に5丁目と6丁目、西側に1丁目から4丁目がある。東側に京王相模原線が通る。また府中街道も中心を通り、通り沿いにファミリーレストランが多い。

「京王駅前通り」と呼ばれる商店街京王稲田堤駅から稲田堤駅に至るまで東西に走っている。乗り換え客などもあり、賑わっている。

東は菅馬場(すげばんば)、西は菅城下(すげしろした)・稲城市矢野口、南は菅北浦(すげきたうら)、北は菅野戸呂(すげのとろ)・菅稲田堤(すげいなだづつみ)に接する。矢野口を除いて菅から分離した地名である。
河川

三沢川

地価

住宅地の地価は、2024年令和6年)1月1日公示地価によれば、菅5-12-16の地点で29万9000円/m2となっている[6]
農業

江戸時代から稲毛米という品質の良い米を産出し、将軍や皇室へ献上していた(献上米)

また稲毛の田から「稲田」と言う地名が出来たと言われる。[7]

また菅地区・稲田地区は多摩川梨の生産地でも昭和初期には宮家に献上していた[8]

鎌倉時代から栽培されているのらぼう菜も特産品のひとつでブランド化されている[9]
歴史
地名の由来

スゲが多く生えていたことから[10][11][12]
江戸時代以前

菅遺跡からは縄文土器・土偶片・須恵器などが出土、西菅遺跡からは住居跡が発掘された[10]奈良時代末期から平安時代初期に建立された八角円堂という渡来人の仏教施設が発見されている[10][11]

平安時代末期小沢城稲毛重成によって築城される。1333年元弘3年)の元弘の乱1335年建武2年)の中先代の乱などで戦場となり、1351年観応2年)に足利直義方の小沢城を足利基氏方の高麗経澄が攻め落とす。

1530年享禄3年)小沢原の戦い北条氏康が小沢城に本陣を敷いたとされている[11]
江戸時代大丸用水

小沢郷であった地域が村として分けられ菅村ができる[11]1690年元禄3年)までは武蔵国多摩郡に属し1690年から武蔵国橘樹郡に属した。1640年寛永17年)から1690年元禄3年)まで中根氏の知行地となる。中根氏が上総国に知行が移されたあとは天領となる[11]

多摩川の洪水や用水がなく水不足だったため米作りには適さない土地であり村高は「武蔵田園簿」(1594年[13])では457石余、「元禄郷帳」(1702年)では1174石余、「天保郷帳」では1227石余[10]とあり大丸用水1604年慶長9年)に二ヶ領用水1611年(慶長16年)に開通したことにより新田開発が進んだことがわかる。
明治・大正時代

梨栽培や蚕業が盛んとなり1925年大正14年)には梨の共同出荷を実現させるために稲田信販購組合が設立される[10]。蚕業が衰退していくと製紙業が発展し安藤製紙工業が建設され桜花紙、紙幣用紙などが製造された。
昭和時代

梨栽培はもっとも盛んとなるが戦時中の統制により激減、川崎市が助成し一時復興するが宅地造成などにより減少、梨もぎができるなど観光果樹園化している[10][14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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