菅野和太郎
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日本政治家菅野 和太郎かんの わたろう

生年月日 (1895-06-20) 1895年6月20日
出生地愛媛県松山市
没年月日 (1976-07-06) 1976年7月6日(81歳没)
死没地大阪府大阪市
出身校京都帝国大学経済学部
前職財団法人昭和学園常任理事[1]
所属政党(翼賛政治会→)
大日本政治会→)
無所属倶楽部→)
改進党→)
日本民主党→)
 自由民主党
称号正三位
勲一等旭日大綬章
経済学博士(京都帝国大学)
第19代 経済企画庁長官
内閣第2次佐藤第2次改造内閣
在任期間1968年11月30日 - 1970年1月14日
第28・29代 通商産業大臣
内閣第1次佐藤第3次改造内閣
第2次佐藤内閣
在任期間1966年12月3日 - 1967年11月25日
第8代 経済企画庁長官
内閣第2次岸改造内閣
在任期間1959年6月18日 - 1960年7月19日
衆議院議員
選挙区(旧大阪府第4区・戦前→)
 旧大阪府第1区
当選回数9回
在任期間1942年5月1日 - 1945年12月18日
1952年10月2日 - 1953年3月14日
1955年2月28日 - 1976年7月6日
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菅野 和太郎(かんの わたろう、1895年(明治28年)6月20日 - 1976年(昭和51年)7月6日)は日本政治家経済学者衆議院議員(9期)、第8代・第19代経済企画庁長官、第28・29代通商産業大臣経済学博士(京都帝大)〔昭和7年〕。大阪経済大学名誉教授目次

1 来歴・人物

1.1 その他役職等


2 選挙歴

3 栄典 

4 参考文献

5 著書

6 脚注

来歴・人物

1895年6月20日愛媛県松山市生まれ[2]1920年京都帝国大学経済学部を卒業後、同大学院に進学し財政学を専攻[3]、指導教授は小川郷太郎であった[4]1921年より文部省在外研究員として英、独、伊に2年間留学。帰朝後は本庄栄治郎に師事している[5]

1924年彦根高等商業学校教授。1932年学位論文「日本会社企業発生史の研究」[6]により京都帝国大学経済学博士[7]1933年3月大阪商科大学教授。同年5月日本経済史研究所設立[8]に参画し理事に就任する。1935年より併せて昭和高等商業学校(現在の大阪経済大学)の教授・法人常任理事を務め、1944年学校長・法人理事長[9]。この間の1936年に大阪商科大を退官し1942年まで大阪市理事、教育部長、企画部長を歴任した。終戦後の1946年昭和高商より改称した大阪経済専門学校[10]旧制専門学校)を退職。1951年大阪経済大[11]法人理事に復し1953年同教授、1976年同名誉教授[12]

この間、1942年旧大阪4区から翼賛政治体制協議会の推薦候補として第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に立候補し初当選、以後通算9回当選した。戦前から終戦年の12月までは翼賛政治会[13]大日本政治会[14][15]無所属倶楽部[16][17]に所属し、戦後は翼賛選挙で推薦候補だったため公職追放。追放解除後1952年旧大阪1区から改進党公認[18]第25回衆議院議員総選挙に立候補し当選、政界に返り咲いた。翌1953年いわゆる「バカヤロー解散」に伴う第26回衆議院議員総選挙にも改進党公認で立候補したが次点で落選、苦杯を嘗めている。落選中の1954年12月、改進党が合流し結成された日本民主党により第1次鳩山一郎内閣が発足。翌1955年2月同党公認[19]第27回衆議院議員総選挙に捲土重来で挑み3度目の当選を果たしている。(以降7期連続当選)同年11月の保守合同後は自由民主党[20]三木派に属した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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