2010年に内閣総理大臣に就任した民主党・立憲民主党所属の「菅直人(かんなおと)」とは別人です。
日本の政治家菅 義偉すが よしひで
内閣広報室より公表された肖像
(2020年 撮影)
生年月日 (1948-12-06) 1948年12月6日(75歳)
出生地 日本 秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現・湯沢市)
出身校法政大学法学部政治学科卒業[注釈 1]
前職.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
段ボール工場作業員
建電設備株式会社社員
小此木彦三郎秘書
所属政党自由民主党
(小渕派→古賀派→無派閥→菅G[注釈 2])
称号法学士(法政大学・1973年)
配偶者菅真理子[4][5][6]
サイン
公式サイトすが義偉
菅 義偉(すが よしひで、1948年〈昭和23年〉12月6日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(9期)、日韓議員連盟会長。
内閣総理大臣(第99代)、内閣官房長官(第81代・第82代・第83代)、拉致問題担当大臣(第4次安倍第1次改造内閣・第4次安倍第2次改造内閣)、沖縄基地負担軽減担当大臣(第2次安倍改造内閣・第3次安倍内閣・第3次安倍第1次改造内閣・第3次安倍第2次改造内閣・第3次安倍第3次改造内閣・第4次安倍内閣・第4次安倍第1次改造内閣・第4次安倍第2次改造内閣)、国家安全保障強化担当大臣(第2次安倍内閣)、内閣府特命担当大臣(地方分権改革)(第1次安倍内閣)、総務大臣(第7代)、郵政民営化担当大臣(第1次安倍内閣)、総務副大臣(第3次小泉改造内閣)、経済産業大臣政務官(第1次小泉第2次改造内閣・第2次小泉内閣)、国土交通大臣政務官(第1次小泉内閣)、横浜市会議員(2期)、自由民主党総裁(第26代)、自由民主党幹事長代行(第2代)を歴任した[7][8][9][10][11]。 秋田県雄勝郡秋ノ宮村(後に雄勝町秋ノ宮を経て現・湯沢市秋ノ宮)の中央部旧国道沿いに実家があった教員一家で、イチゴ農家の長男として生まれる[7]。現住所は神奈川県横浜市神奈川区金港町[12]。妻は松山市の副市長の娘[13]。大臣政務秘書官を務めた長男の正剛[14]をはじめ息子が3人おり[15]、次男は三井物産、三男は大成建設で勤務している[16]。なお孫が3人いる[17](うち二人は長男の娘[18])。 家族は父、母、姉2人、弟がいる。 父親である菅和三郎は23歳(1940年か1941年)のときに満州国(現・中国東北部)に渡り、南満州鉄道に入社、結婚し、長女が生まれた。第二次世界大戦末期、ソ連参戦により、和三郎は臨月の妻と長女とともに通化市で日本の降伏を迎えた。通化では日本の避難民が中共軍などに虐殺される通化事件が起こるが、菅一家は間一髪のところで通化を脱出、奉天(現在の瀋陽市)に向かった。奉天で次女が誕生。現地では偶然、秋ノ宮村からの開拓団と遭遇し、和三郎は彼らの食糧調達などに奔走する。1946年に引揚げ、引揚げ後は、郷里の秋ノ宮で農耕に従事した。「秋の宮いちご」のブランド化に成功して、秋の宮いちご生産出荷組合組合長や、雄勝町議会議員、湯沢市いちご生産集出荷組合組合長などを歴任。2010年(平成22年)に92歳[19]で死去すると、旭日単光章を叙勲されている[20]。 母や叔父、叔母は元学校教員であり、2人の姉も高等学校教員となった[21][22][23][24][25]。 弟の秀介は株式会社千葉ステーションビルの元取締役[26]。 雄勝町立秋ノ宮小学校(現・湯沢市立雄勝小学校)を卒業後、雄勝町立秋ノ宮中学校(現・湯沢市立雄勝中学校)に進学する。中学卒業後は、自宅から最も近い秋田県立湯沢高等学校に2時間かけて通学し、第3学年では進学組に所属した。後に、『フライデー』から「特に目立った成績ではなく、姉が進学した北海道教育大学を受験したが不合格となった」と報道されたが、森功の取材では菅本人は当時「教員にだけはなりたくない」と考えており、北海道教育大の受験はしていないと述べている。父から農業大学校への進学を勧められたが断り、高校卒業後上京する。 「東京へ行けば何かが変わる」と夢を持ち上京した[27]が、東京都板橋区の段ボール製造工場(社名未詳)で勤務していた時代には秋田時代と変わらぬ日々を過ごし、現実の厳しさを痛感して2か月で工場を退職。それから約2年後に法政大学に入学するまでの経緯については、報道によって食い違いが見られる。 朝日新聞記者の大鹿靖明が2009年に菅の両親に取材を行った際の記録によれば、工場を退職した菅は秋田の実家に戻り、大学進学を目指して受験勉強を始めた。その傍ら、役内川 上京から2年後に「授業料が最も安かった」という理由で法政大学法学部政治学科へ進学する[29][30]。なお、複数の週刊誌などで第二部(夜間学部)の出身であると報じられることがあるが、菅本人が2016年のインタビューで「メディアで二つくらい、法政の夜間卒だと書いているのがありましたが、昼です」と述べており[3]、実際には第一部(昼間)の出身である[31]。 法大在学中には実家から仕送りも受けつつ[32]、警備員や新聞社、カレー屋のアルバイトで生活費と学費を稼いでいた。一方で、大学の空手道部に4年間所属し、三段の段位を取得している[29][33]。1973年、法政大学法学部政治学科を卒業し、建電設備株式会社(現・株式会社ケーネス)に入社した。 1975年、政治家を志して相談した法政大学就職課のつてで、OB会事務局長から法政大学出身の第57代衆議院議長中村梅吉の秘書を紹介された。
来歴
生い立ち
満州から引き揚げた両親
故郷秋田から上京就職
法政大学へ進学
政治家秘書として
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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