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菅江真澄像
菅江 真澄(すがえ ますみ、宝暦4年〈1754年〉 - 文政12年7月19日〈1829年8月18日〉)は、江戸時代後期の旅行家、本草学者。本名は白井秀雄(幼名は英二)、知之・秀超などとも名乗った[1][2]。文化年間半ば頃から菅江真澄(真栖・真隅とも)を名乗った。墓碑銘(下記参照)から宝暦3年生年説もある[3]。
生涯・人物象潟地震で隆起する以前の、象潟の様子が描かれた屏風。真澄は隆起する以前の象潟を訪れている。
父は白井秀真[2](秀順[1])。三河国生まれ。出身地は現在の岡崎説(柳田國男)と豊橋説(白井梅里)の両説あり[3]。少年期に岡崎城下成就院の稚児となり、三河吉田藩の植田義方
(賀茂真淵門人)に国学を学んで学問に目覚め、和文や地誌の修行を積む[1][2]。その後、尾張国に遊学して、河村秀根・丹羽嘉言を師として、国学・本草学・写生などを学んだ[1]。天明3年(1783年)郷里を旅立ち、信濃・越後を経て出羽・陸奥・蝦夷地など日本の北辺を旅した[1]。信濃では『伊那の中路』を初めとする紀行や随筆、陸奥・出羽では『霞む駒形』『率土が浜つはひ』『秋田の仮寝』『小野のふるさと』といった紀行や素描本を綴り、蝦夷地ではアイヌの人々の生活を『えぞのてぶり』に写した[1]。蝦夷地から下北半島を漫遊、寛政7年(1795年)より7年間、弘前藩で採薬御用などを勤めたが行動不審を問われ日記や紀行を押収され軟禁に処された[2]。享和元年(1801年)に久保田藩(秋田)に移り、那珂通博・高階貞房・鳥屋長秋などの知遇を得る[1](司馬遼太郎は、真澄が久保田藩に留まったことが、その著作の散逸を防いだと指摘している[4])。その後も数多くの紀行や図絵集、随筆や地誌などを編むが、文政12年(1829年)仙北郡角館で客死し、親交のあった古四王神社社家鎌田正家の墓所の隣に葬られた[1]。真澄の死については、神代村梅沢(現在の仙北市田沢湖梅沢)で病の床について亡くなり、遺骸を角館の神明社に移した後に死を公表して、その後秋田に運んだとする説[5]もある。菅江真澄翁の墓
秋田市寺内にある菅江真澄翁墓は、墓碑正面中央に「菅江真澄翁」と陰刻され、その周囲に真澄と親交が深かった国学者・鳥屋長秋による万葉調の挽歌が彫られている[6]。右側面には没年月日と享年が「文政十二己丑七月七月十九日卒年七十六七」とある。墓石は、当初は南向きであったが、隣接する墓所を通って参拝することになるため、1909年(明治42年)に西向きに変えられた。1962年(昭和37年)に秋田市史跡第一号に指定され、2014年(平成26年)3月25日には、秋田県指定史跡に指定された。 1928年(昭和3年)9月、秋田考古会が柳田國男を招き、南秋田郡寺内村(現秋田市寺内)の古四王神社で菅江真澄百年祭を行った。このとき、真澄関係資料の目録が編集され、真澄の肖像画と伝えられる肖像の模写が4軸も出品されている[7]。しかし、現在確認されている肖像画は1軸のみである。10歳余りのころ、実際に菅江真澄に会った石井忠行はこの肖像画を見て、「像の顔は赤く少し肥えている方だが、自分の記憶では真澄の顔は青白く、背丈は低い方でやせていたので、像とは印象が違う」と感じ、真澄の歌友であった西勝寺の隠居に尋ねたり、彼の知人にも話を聞いた結果、菅江真澄は背が低いが肥えた方で、顔色は白かったということであった[8]。 真澄の著書は存命中の文政5年(1822年)に明徳館に献納された(同館事業として編纂された『雪の出羽路 平鹿郡』『月の出羽路 仙北郡』含む)。1871年(明治4年)に明徳館本は佐竹家に移管され、1944年(昭和19年)には辻兵吉の所有となったが、その後秋田県立博物館に寄贈され現在に至る。1957年(昭和32年)には『自筆本真澄遊覧記』89冊として秋田県有形文化財となり、1991年(平成3年)には国の重要文化財となっている。 真澄没後に書斎に残された著書は墓碑建立に協力した人に形見分けされたが、明治期に、旧久保田藩士・真崎勇助 秋田県立博物館は真澄研究の拠点として、1996年(平成8年)に「菅江真澄資料センター」を創設した[10]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
菅江真澄の肖像画について
著作物
著作物の保存と活用
著作一覧
出典検索?: "菅江真澄"
著書名は万葉仮名で表現されており、同じ著書でも複数の表記の揺れがある。また、書名のみが知られる未発見本も数多い。
天明年間
委寧乃中路(イナノナカミチ) - 1783年(天明3年)3月中旬、信州飯田から天龍川右岸に沿って北行し、中仙道洗馬宿から5月24日、本洗馬に到着し、長興寺近くの釜井庵(かまいあん)を拠点として近辺を遊覧した12月半までの日記。