菅原都々子
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菅原 都々子

基本情報
出生名菅原 都々子
生誕 (1927-08-06) 1927年8月6日(96歳)
戸籍上は (1927-08-15) 1927年8月15日(96歳)
出身地 日本 青森県十和田市
ジャンル歌謡曲
職業歌手
活動期間1937年 -
レーベルテイチクレコード

菅原 都々子(すがわら つづこ、1927年(昭和2年)8月6日(ただし戸籍上は同年8月15日[1] - )は、日本の女性歌手。哀愁漂う独特のヴィブラートによる歌唱法を持ち味に「エレジー(悲歌)の女王」と呼ばれ[2]、「NHK紅白歌合戦」の記念すべき歌唱者第1号(最初に歌った歌手)として著名である[3][4][5]。本名は永松 都々子(ながまつ つづこ)。旧姓は菅原。
人物

青森県十和田市出身[1]神奈川県相模原市南区在住[6]東洋音楽学校(現・東京音楽大学)卒業。

1937年(昭和12年)にデビュー。独特の哀愁を帯びた個性的なビブラート唱法が特徴で、『江の島悲歌』(えのしまエレジー)や『月がとっても青いから』が代表曲として知られる。現在の時点で第1回第2回NHK紅白歌合戦の出演者で最後の存命者でもある[5][3]

80歳を機に第一線を退いたが[7]、90代に入った現在でもNPO法人「名曲慰問団」名誉顧問として老人福祉施設にボランティア活動を行っている[5]。歌謡番組にも2018年頃まで定期的に出演していた。

父は作曲家の陸奥明。養父・師匠は作曲家の古賀政男[7]。夫はボクシング選手で明治大学工学部教授だった永松英吉
生い立ち・経歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "菅原都々子" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2008年3月)


1927年(昭和2年)8月6日 - 青森県上北郡三本木町(現・十和田市)に生まれる。父は浅草オペラ歌手の河合丸目郎(まるめろう)で、後に作曲家となる陸奥明。ただ、当時の陸奥は故郷に帰って新聞記者をしていた。

9歳の時にオーディションのために1人で上京させられて、その際に作曲家・古賀政男に認められたことから「古賀久子」の名をもらい養女となる。

1937年(昭和12年) - テイチクエンタテインメントで養父・古賀が作曲した『お父さんの歌時計』でデビュー、同時に実父の陸奥も作曲家として上京。同年、『小楠公』(作曲:古賀政男)

1940年(昭和15年) - 養子縁組は解消。父・陸奥のもとにもどって「菅原都々子」として再デビュー。

1945年(昭和20年)3月 - 父の母校である東洋音楽学校を卒業。戦後田端義夫前座を務めながら独特のビブラートの高音で少しずつ人気を得ていく。

1946年(昭和21年)10月 - 『片割れ月』

1948年(昭和23年)10月 - 『踊りつかれて』

1950年(昭和25年)2月 - 『憧れの住む町』

1951年(昭和26年)

1月3日 - 「第1回NHK紅白歌合戦」に初出場[8]。『憧れの住む町』で紅組トップバッター及び先攻トップバッターを務めた。紅白には計4回出場している(詳細は下記参照)。

3月 - 『憧れは馬車に乗って』

7月 - 『連絡船の唄』

10月 - 『江の島悲歌(えのしまエレジー)』

この歌は大映により映画化され共に大ヒットとなり菅原都々子の名前は全国区となる。その後続編的な作品として『佐渡ヶ島悲歌』『博多エレジー』『海峡エレジー』などが製作され独特のビブラートが掛かったうなり節、悲壮感のある声質も相まって「エレジー(悲歌)の女王」との異名をとるようになった。


12月 - 『アリラントラジ


1952年(昭和27年)

10月 - 『佐渡ヶ島悲歌(エレジー)』


1955年(昭和30年)

4月 - 『月がとっても青いから

これはエレジーものが飽きられ始めたため、父・陸奥がイメージチェンジを賭けて売り出した曲。現在の市場規模の30分の1の時代、100万枚を超える[9]大ヒットとなり、この曲で歌手としての地位を不動のものとする。


7月 - 『木浦の涙』


元々、物静かな性格だったためノイローゼにかかったことから第一線から退いて、テレビ番組リサイタルを厳選して歌うようになる。

1961年(昭和36年)6月 - 『北上夜曲』

1968年(昭和43年)10月 - 『なみだ月』

1971年(昭和46年)8月4日 - 実父・陸奥明が死去(76歳没)。

1973年(昭和48年)2月 - ベルリンオリンピックボクシング日本代表で、明治大学教授(当時)の永松英吉と結婚。

1978年(昭和53年)7月25日 - 養父古賀政男急性心不全のため死去(73歳没)。

1979年(昭和54年)11月 - シングル『風の又三郎』発売。

1988年(昭和63年) - 歌手生活50周年記念リサイタル開催。

1992年(平成4年)11月18日 - 夫・永松英吉が急性心筋梗塞のため死去(79歳没)。

1996年(平成8年)

歌手生活60周年記念リサイタル開催。

9月 - 歌手生活60周年記念シングル『あなたが好き』


2001年(平成13年) - 歌手生活65周年記念出版の半生記「月がとっても青いから」(恵志泰成著)発売。


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