菅原道大
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生誕1888年11月28日
日本長崎県
死没 (1983-12-29) 1983年12月29日(95歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1909年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
除隊後農業
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菅原 道大(すがわら みちおお[1]1888年明治21年)11月28日 - 1983年昭和58年)12月29日)は、日本陸軍軍人。陸士21期。最終階級は陸軍中将
生涯

1888年(明治21年)11月28日長崎県南高来郡湯江村甲百九十四番地で小学校教員の父・菅原道胤の息子として生まれる。高等小学校仙台陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1907年12月、陸軍士官学校に21期生として入校。1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校歩兵科を9番の成績で卒業。同年12月25日、歩兵少尉に任官、歩兵第4連隊付。1910年に行われた徳川好敏による日本では初となる動力飛行を目撃したことがきっかけで航空に関心を持つようになった[2]。菅原は航空機が将来的に重要な戦力になると確信し、自ら航空兵となることを望んでいたが、歩兵重視の大日本帝国陸軍では航空兵の地位は低く、菅原の希望は上官から認められなかった[3]

1913年2月3日中尉。1916年陸軍大学校31期に入学。1919年(大正8年)11月、陸軍大学校卒業。1921年4月陸軍省副官1924年(大正13年)8月20日歩兵少佐。1924年(大正13年)1月から3月までアメリカに出張。1925年3月18日歩兵第76連隊大隊長。

1925年(大正14年)5月、宇垣軍縮が行われ四個師団が廃止され陸軍航空科が独立した。菅原は陸軍のエリートコースに乗っていたのにもかかわらず、当初からの希望を貫いて、まだ陸軍内の地位も低く出世も見込めない航空科への転科を申し出し、今回は受理されて5月1日付で航空少佐として飛行第6連隊に着任を命じられる[2]。陸軍飛行学校令第五条により、陸軍飛行学校召集のため7月28日釜山出発、29日下関到着。9月19日陸軍飛行学校修学終了。また6月17日から11月3日まで下志津陸軍飛行学校、飛行第6連隊長において飛行勤務に服している。12月1日陸大に専攻学生として入校。1926年12月7日同課程卒業。1927年4月8日飛行第6連隊。自らの意思でエリートコースを外れて、海とものとも山のものともわからない航空科に転科した菅原を陸軍の同僚らは好奇の目で見たが、菅原の航空に対する思いは強く、意に介することはなかった[2]

1927年(昭和2年)12月13日、陸軍航空本部員。1928年4月2日から1929年1月18日まで航空研究委員会幹事を務める。1929年(昭和4年)に岐阜市各務ヶ原飛行場で行われた陸軍航空隊の飛行演習で、見学に来ていた海軍航空本部教育部員大西瀧治郎少佐と初対面、当時まだ数少なかった航空の専門家であった両者はすっかりと意気投合して、演習のあとの慰労会で互いに開襟を開いて語り合ったという。のちに菅原と大西はそれぞれ陸海軍で特別攻撃を推進していくことになる[4]

1931年8月1日下志津陸軍飛行学校教官兼同校研究部部員。8月15日から10月13日まで召集佐官として下志津陸軍飛行学校、10月15日から11月11日まで明野陸軍飛行学校に在学した。1935年3月15日航空本部第一課長。1936年1月25日から8月12日まで飛行第6連隊、航空本部において航空勤務。1936年(昭和11年)10月から翌年2月まで欧州に出張。ドイツの航空軍備状況の視察に派遣された(駐独武官大島浩を団長としたが、実質的な長は菅原であり菅原航空視察団と通称された)。視察団の報告内容は、防空は飛行機の特性に通じる航空が担当すること、高射砲の増強で民間の防空も強化すること、防空のために多くの飛行機を使用することはできないことをまとめている[5]

菅原は帰国後、仙台幼年学校からの同期で無二の親友であった陸軍参謀本部作戦課長石原莞爾大佐と陸軍省軍務局軍事課長町尻量基大佐の3名で「航空重視」の上申書を参謀本部に提出したが、歩兵第一主義から脱しきれない参謀本部は「航空優先、地上絶対」という玉虫色の返事を行った[6]。菅原は、陸軍が航空をあくまでも野戦を担当する一兵種程度の認識しかしていないことに失望し、航空重視に舵を切った海軍と比較すると3年は遅れていると考え、1937年(昭和12年)4月海軍からドイツ視察の説明を求められた際、日本軍もルフトヴァッフェのように陸海軍の航空を合体した独立空軍を持つべきであるとの申し入れを海軍側に正式に行った。菅原の申し入れに対して海軍は、陸軍側が人数が多く政治力もあり独立空軍は陸軍に支配される可能性が大きいことや、技術的、用兵的に劣っている陸軍航空に海軍航空が吸収されるのは御免、などの理由により菅原の先進的な申し出を「空軍独立問題は時期尚早であり、海軍側は不賛成である」と断ることにし、その海軍側の返事を菅原に伝えたのが大西であった[6]。使いとなった大西自身は独立空軍について前向きであったとする意見もある。空軍独立問題はこの後も陸海軍で検討は続けられたが、太平洋戦争の開戦により棚上げとなった[7]

同年8月2日、陸軍少将に進級、第2飛行団長に任命。1938年(昭和13年)7月第3飛行団長。1939年(昭和14年)10月、陸軍中将、陸軍航空総監部付。1939年12月下志津飛行学校長。1940年8月1日第1飛行集団長。菅原は妻に常々「お上より頂くお手当は、これ全て部下を養わんが為のもの」「部下将兵や家族の困りおるものへ施せ」と言い聞かせており、妻はそれを守って家の経費は最低限に抑えて、菅原は給料を部下将兵のため気前よくつかっていた[8]。働き手を徴兵されて困窮している部下将兵の実家に「餅代」と称してお金を送ったり、戦死・殉職した部下の遺族の面倒も見ており、部下をかわいがる「仁将」として慕われていたという[9]
太平洋戦争
第三飛行師団南方軍各指揮官および幕僚、前列右から2番目が菅原

1941年9月15日第3飛行集団長。12月に太平洋戦争が開戦したが、菅原は開戦と同時に開始されたマレー作戦における航空作戦を指揮し、菅原は今まで培ってきた航空の知識やノウハウを十二分に発揮し、豊かな発想で航空作戦を展開していった[10]。第3飛行集団は、陸軍航空隊のエリートを集めた精鋭部隊であったので、もっとも重要な1941年12月8日開戦劈頭のコタバル海岸敵前上陸作戦の航空支援を担当した。しかし、仏印から出撃し日本軍の輸送船団を護衛する陸軍戦闘機の航続距離は短く、短時間の護衛で仏印の基地に帰還する必要があったので、菅原は「上陸部隊が飛行場を占領しだいそこに着陸せよ」という大胆な作戦を計画し、第12飛行団長青木武三大佐に実行を命じた。青木は自ら九七式戦闘機に乗り込んで船団護衛任務に就くと、地上部隊から「敵飛行占領す」との報告がなかったにもかかわらず、自ら先頭に立って悲愴な覚悟でシンゴラ飛行場に強行着陸した。飛行場はすでに日本軍地上部隊が占領しており、味方の戦闘機が滑り込んできたのを見た日本軍将兵は歓声をあげ、作戦成功の知らせを受けた菅原も喜んでいる[11]

菅原は占領したての飛行場に九九式双発軽爆撃機を進出させて、コタバル飛行場のイギリス空軍航空部隊を攻撃させた。コタバルのイギリス軍機は日本軍が上陸した12月8日に、ハドソン爆撃機の合計3回述べ十数機が日本軍輸送船団を爆撃して高速輸送船淡路山丸を全損に追い込んでいたが、日本軍の爆撃により損害を被って12月13日にはコタバル飛行場から撤退している[11]。第3飛行集団はイギリス空軍を圧倒しながらも、イギリス空軍はゲリラ的少数機で日本軍地上部隊に継続的に爆撃を加えていた。


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