菅原洋一
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菅原 洋一
生誕 (1933-08-21)
1933年8月21日(90歳)
出身地 日本兵庫県加古川市
ジャンル歌謡曲
職業歌手
担当楽器
活動期間1958年[1] -
レーベルユニバーサルミュージック
事務所ミュージック・オフィス合田
公式サイト ⇒菅原洋一

菅原 洋一(すがわら よういち、1933年(昭和8年)8月21日 - )は、日本の男性歌手兵庫県加古川市出身[2]兵庫県立加古川東高等学校卒業。国立音楽大学大学院修了。徳間ジャパンコミュニケーションズ所属。所属事務所はミュージック・オフィス合田、個人事務所はスガワラ企画。2016年の時点で、株式会社ハイブリッジと業務提携していた[3]
経歴

国立音楽大学卒業後、1958年にタンゴバンド「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」に参加し、歌手デビューをする[3]

1962年、ポリドールよりレコードデビュー[1]するが、しばらくの間はヒット作に恵まれない不遇を味わった[2]

1965年小澤音楽事務所参画メンバーとなり、所属していた(後に独立)。同年に発売した「知りたくないの」(元々は「恋心」のB面曲だった)が、2年後の1967年に入ってからヒット。80万枚を超える売上を記録[4]したことで、一躍人気歌手の仲間入りを果たし、同年、NHK紅白歌合戦にも初出場を果たす(以降1988年まで通算22回連続で紅白に出場)。またこの年、ファースト・リサイタルも開催[5]

さらに1968年に「誰もいない」で第10回日本レコード大賞歌唱賞、1970年には「今日でお別れ」の大ヒットにより第12回日本レコード大賞を受賞し、実力派シンガーとして確固たる地位を確立。その後「愛のフィナーレ」(1970年)、「忘れな草をあたなに」(1971年)、「愛の嵐」(1974年)などの曲がヒットした[5]

1969?1970年にかけてタンゴの王様“アルフレッド・ハウゼ楽団”、カンツォーネの女王“ミルバ”とレコーディングやステージ等で共演[1]

また、当時の人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」の司会者・前田武彦から、菅原の愛嬌のある笑い皺が特徴的な小判型の丸顔に因んで、「3日前のハンバーグ」との珍妙なニックネームを付けられ、以後、「ハンバーグ」という愛称が彼の代名詞的フレーズとなった。1970年代に入ってからは料理番組「キッチンパパ」(TBS)の司会も担当するなど、歌手以外の活動にも重点を置くようになった。

1982年、同じ事務所に所属する(当時)シルヴィアと歌った「アマン」が翌1983年にかけてヒットし、デュエット・ソングの定番の1曲となった[6]

1985?1989年にかけてアルゼンチンを代表するタンゴオルケスタ“レオポルド・フェデリコ楽団”や“ホセ・コランジェロ楽団”等と共演し絶賛を浴びる[1]

1988年、歌手生活30周年記念リサイタルを国内6都市とロサンゼルスで開催[1]。ソウルオリンピック前夜祭に日本代表として出演[1]

2000年代頃からはライフワークともなった最小限の音飾で「生の歌声と生音の演奏」が中心の「ニュークラシカルコンサート」を全国クラシックホールを中心に展開している[3]

2001年5月に「アルゼンチン建国記念日」を祝い、「タンゴフェスタ2001」を開催[3]

2006年、ペギー葉山&菅原洋一コンサート「いい時代 いい歌50年」を全国で開催[1]

2008年、歌手生活50周年記念リサイタルを渋谷オーチャードホールにて開催[1]。同年、(社)日本歌手協会常任理事に就任[5]

2010年、喜寿を迎え、「77歳77曲コンサート」を開催[5]。また、上記の日本歌手協会レーベル第1号歌手として「ビューティフルメモリー」を発売[1]

2012年、歌手生活55年記念として全曲新録音のベストアルバム「ビューティフルメモリー 我が心の歌?80才の私からあなたへ?」発売。以降毎年「〇〇才の私からあなたへ」シリーズのアルバムを発売[1]

2019年、文化庁長官表彰[7]

米寿を過ぎた現在(2022年)もCDを発表し、2ヶ月に1度のペースで東京・上野のライブハウスで歌い、他にも都内や地方でコンサートを開いている[2]

エピソード
生い立ち

生家は、加古川市内の寺家町商店街にあった若松屋という商家で、乾物から棺桶まで扱っていた。実母は歌の上手な人だったが、菅原を生んで間もない頃に亡くなり、物心がつく前に父親が再婚し継母と暮らし始めた。菅原は子供の頃、ラジオから流れる流行歌を覚えて、従業員の休み時間に家の中で歌っていた。周りの大人たちに歌声を褒められたが、この頃は特にプロの歌手になりたいとは思っていなかった[2]

実は小学生の頃まで継母を実母と思って暮らしており、中学1年生のある日親戚の女性から生まれてすぐに実母が亡くなった事実を知らされた[注釈 1]。しかし、父も義母もそんなことを微塵も感じさせずに育ててくれたことから、両親にはそれまで通りの態度で接し続けた[注釈 2]。この頃、ラジオから流れてきた「黄昏」という曲を聴いて心が震え、これが菅原にとってタンゴとの運命的な出会いとなった[2]

中学生の頃は体が弱かったこともあり風邪をこじらせて、一時心臓や腎臓を悪くした[2]。しばらく学校を欠席した影響で数学の成績が悪くなり、以前から音楽に興味があったことも相まって、数学とは無縁の音楽系大学への進学を目指すようになる。本人によると、田舎町だったこともあり音大受験のための学校がなく、高校進学後は独学で音楽を勉強した[2]

志望校を国立音楽大学に決め、課題である声楽(『マルタ』というオペラのアリア)と、ピアノ曲『乙女の祈り』を練習した。入試当日、ピアノ演奏が途中で止まってしまい諦めかけたが、思いがけず合格した。後に本人が聞いた話によると、試験官の先生の中に「声質はいいし、面白そうだから入れてやろうよ」との意見が出たことで合格になったとのこと[2]
歌手デビューへ

同大学声楽専攻科入学後は、関種子[注釈 3]に師事[2]


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