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菅原 明朗
基本情報
生誕 (1897-03-21) 1897年3月21日
出身地 日本 兵庫県明石市
死没 (1988-04-02) 1988年4月2日(91歳没)
ジャンルクラシック音楽
職業作曲家、音楽教育者、啓蒙家
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽
菅原 明朗(すがはら めいろう、Meireaux S?gaharat[1]、1897年(明治30年)3月21日 - 1988年(昭和63年)4月2日)は、日本の作曲家、音楽の教育者、指導者、啓蒙家。本名は吉治郎。 兵庫県明石市大蔵町生まれ。菅原道真の菅原氏の末流。プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の明石市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを習った。 1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで川端画学校洋画科で藤島武二に学んだ。画学校に通うかたわら作曲家の大沼哲に師事し、1915年(18歳)より作品を発表。また、大田黒元雄・堀内敬三等の「新音楽グループ」に入り、雑誌「音楽と文学」同人となった。 1917年(20歳)、武井守成主宰のマンドリン楽団、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」に入団し、また、「軍艦行進曲」で有名な瀬戸口藤吉に対位法を学んだ。1924年(27歳)初夏より1年あまり同志社大学マンドリン倶楽部の指揮をとり、1926年(29歳)、「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」の指揮者となった。この頃から、音楽作品が認められるようになった。当時のマンドリンオーケストラの編成は巨大化する傾向にあり、菅原の代表作「内燃機関」もフルート、バスクラリネット、トロンボーン、ピアノ、ハーモニウム、打楽器を加えたものであった。しかし1932年に「雑感」という文章を発表し、本格的な管弦楽の普及により、その代用としての巨大化したマンドリンオーケストラの役割は終わったとして、新しいマンドリンオーケストラの在り方を模索するよう主張し、マンドリン音楽界から去った。 その一方で1930年(33歳)、私立「帝国音楽学校」の作曲科主任教授となり、また、箕作秋吉、清瀬保二、橋本国彦、松平頼則ら16人と「新興作曲家連盟」を、さらに、1936年、門下の深井史郎らと「楽団創生」を結成した。 1938年、歌劇「葛飾情話」の上演後、そのときのアルト歌手、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}永井智子と結婚。[要検証 – ノート] ドイツ系が主流だった当時の日本の洋楽界に、彼はフランス流の新風を吹き込んだが、1930年代中ごろからはイタリア音楽に接近し、チマローザやピツェッティに傾倒した。指揮活動は、自作の指揮ばかりでなく、たとえば1942年には、アルチュール・オネゲルのオラトリオ「ダヴィデ王」を松竹交響楽団により日本初演している。戦後はグレゴリオ聖歌に影響を受けた作品が多く、またキリスト教に関連する作品も多数残した。さらに1963年に神戸で活動する関西マンドリン合奏団と出会ってマンドリン界に復帰し、最晩年まで関西マンドリン合奏団のために多くの作曲や編曲を行った。 1967年の最初のイタリア旅行以降、彼はたびたびイタリアに長期滞在し、ピツェッティと親交を深めた。長寿の最期まで現役で、ハーモニカ奏者の崎元譲やアコーディオン奏者の御喜美江
経歴
1981年4月、芥川也寸志と新交響楽団による「日本の交響作品展5 菅原明朗」が開催された[2]。
1988年4月2日、「ヨハネの黙示録」に基づいたカンタータ作曲の途上、亡くなった。(享年91歳) 350もの作品の楽譜は、戦災で失われたものが少なくないが、一部は国立音楽大学付属図書館に保管されている。 以下年代順に作品名を羅列する。作風の変遷がうかがえる。
代表作
1915年(18歳):
三つの音詩、(ピアノ独奏)
ミヌエット、(ピアノ独奏)
1916年(19歳):二つの行進曲、(吹奏楽)
1920年(23歳):交響的変奏曲、(マンドリンオーケストラ)
1921年(24歳):詩、(管弦楽)
1922年(25歳):ワルツ調にて、(マンドリンオーケストラ)
1923年(26歳):
エピソード、(管弦楽)
第一交響楽、(マンドリンオーケストラ)
古き寧楽のスケッチ、(マンドリンオーケストラ)
第一奏鳴楽、(プレクトラム四重奏)
セガンティーニの回想、(管弦楽)
ギター四重奏、(ギター合奏)
1924年(27歳):
ジャード、(管弦楽)
即興詩、(マンドリン独奏とマンドリンオーケストラ)
1925年(28歳):
ミヌエット「ワルツの如く」、(マンドリンオーケストラ)
真昼の行列、(マンドリンオーケストラ)----大沼哲・武井守成との共作『三人の友の組曲』より
1926年(29歳):組曲、(管弦楽)
1927年(30歳):白鳳の歌、(ピアノ独奏)(マンドリンオーケストラ)
1928年(31歳):
祭典物語、(管弦楽)
セレナータ、(管弦楽)
女、(独唱)
丘の上、(慶應義塾大学、学生歌)
1929年(32歳):詩的交響楽「内燃機関」、(マンドリンオーケストラ)(管弦楽)
1930年(33歳):
クーラント舞曲、(管弦楽)
近江の荒都、(歌曲・管弦楽伴奏)---- 柿本人麻呂の和歌