凡例菅原文時
菅原文時『前賢故実』より
時代平安時代前期 - 中期
生誕昌泰2年(899年)
死没天元4年9月8日(981年10月8日)
別名菅三品
官位従三位・式部大輔
主君村上天皇→冷泉天皇→円融天皇
氏族菅原氏
父母父:菅原高視
兄弟文時、雅規、緝熙、至貫、庶幾
子惟熈、輔昭、元真、安杲
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菅原 文時(すがわら の ふみとき)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・文人。右大臣・菅原道真の孫で、大学頭・菅原高視の次男。官位は従三位・式部大輔。 朱雀朝の天慶6年(943年)45歳にしてようやく対策に及第する。 文官として内記・大学頭・弁官などを歴任。村上朝前半の十余年に及ぶ内記の時代に諸国に祭られている神祇名号について訛りや位階の誤りを正すなどの業績がある。天暦8年(954年)右少弁に補せられると、天徳5年(961年)ごろまで弁官を務め右中弁まで昇進する。弁官時代には、詔命に従い『叙位略例
経歴
奢侈を禁ずることを請う事
官を売るを停むることを請う事
鴻臚館を廃失せずして、遠人(外国人)を懐け、文士を励ますことを請う事
円融朝までに正四位下に昇り、貞元3年(978年)式部大輔に任ぜられる。天元3年(980年)公卿昇任のために、可能性の少ない参議をあきらめて従三位の叙位を願って奏上を行い、翌天元4年(981年)正月に希望が叶って従三位に叙せられた。同年9月8日薨去。享年83。最終官位は式部大輔従三位。 漢詩人として詩集『文芥集』があったが散逸。『本朝文粋』『扶桑集
人物
また、勅撰歌人として『拾遺和歌集』に和歌作品1首が入首している[2]。 注記のないものは『公卿補任』による。
官歴
天慶6年(943年) 日付不詳:対策[3]
天暦4年(950年) 11月10日:見大内記兼美濃介[4]
時期不詳:大学頭[5]
天暦8年(954年) 10月:右少弁[6]
天徳元年(957年) 日付不詳:文章博士[5]
天徳2年(958年) 日付不詳:左少弁(考)[7]
天徳4年(960年) 日付不詳:見右中弁[7]
時期不詳:正四位下
貞元3年(978年) 10月17日:式部大輔
天元3年(980年) 正月5日:見式部大輔兼文章博士尾張権守[8]
天元4年(981年) 正月7日:従三位。9月8日:薨去(式部大輔従三位)
系譜
父:菅原高視
母:菅原宗岳(または宗岡氏)の娘
妻:不詳
男子:菅原惟熈
男子:菅原輔昭
男子:元真(923-1008)
男子:安杲
脚注^ 『本朝文粋』
^ 『勅撰作者部類』
^ 『日本大百科全書』
^ 『仁和寺御室御物実録』