莫賀咄侯屈利俟毘可汗
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莫賀咄侯屈利俟毘可汗(Baγatur kulug sibi qaγan、漢音:ばくかとつこうくつりしひかがん、?音:Mohedu?houq?lisipi k?han、? - 630年)は、西突厥可汗統葉護可汗の伯父。莫賀咄侯屈利俟毘可汗というのは可汗号で、姓は阿史那氏、名は不明。莫賀咄というのは称号(バガトゥル:Baγatur)と思われる[1]
生涯

貞観2年(628年)、統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)の伯父で小可汗であった莫賀咄(バガテュル)は統葉護可汗を殺し、自ら大可汗となり、莫賀咄侯屈利俟毘可汗と号した。しかし、西突厥の国人たちはこれに臣従せず、弩失畢部は共に泥孰莫賀設を推して可汗にしようとするが、泥孰は従わなかった。時に統葉護可汗の子の咥力特勤(テュルク・テギン)は莫賀咄の難を避けて康居ソグディアナ地方)に亡命していたので、泥孰は彼を迎えて立て、乙毘鉢羅肆葉護可汗とした。両者は遣使をに送って、各々朝貢した。

貞観4年(630年)、莫賀咄可汗は唐に求婚した。太宗は西突厥の内乱が収まっていないということで求婚を許さなかった。そのころ、西域諸国及び鉄勒は以前から西突厥に役属していたが、これに乗じてことごとく叛いたので、西突厥国内は虚耗した。肆葉護可汗は旧主の子ということで、衆心を帰服させ、西面の都陸可汗(テュルク・カガン)や莫賀咄可汗の部豪帥の多くがこれに臣従してきた。そこで肆葉護可汗は兵を興して莫賀咄可汗を撃ち、これを大敗させた。莫賀咄可汗は金山(アルタイ山脈)に遁走し、泥孰に殺された。ここでようやく西突厥の国人たちは肆葉護可汗を奉じて正式に大可汗とした。
脚注^ 「莫賀咄」をbaγaturに比定しているのは内田吟風であり、これに対し護雅夫は『古代トルコ民族史研究』において、baγatur(バガテュル:英雄)という語が『突厥碑文』には使われておらず、もし「英雄」・「勇ましい」を指す場合はalp(アルプ)を用いるのが普通であり、baγaturに比定するのは断言しかねるとしている。

参考資料

旧唐書』(列伝第百四十四下 突厥下)

新唐書』(列伝百四十下 西突厥)

護雅夫『古代トルコ民族史研究V』(1997年山川出版社

佐口透山田信夫護雅夫訳注『騎馬民族誌2正史北狄伝』(1972年平凡社










西突厥可汗
大可汗

阿波可汗581-587 / 泥利可汗587-604 / 泥?処羅可汗603-611 / 射匱可汗611-618 / 統葉護可汗618-628 / 莫賀咄侯屈利俟毘可汗628-630 / 肆葉護可汗628-632 / 咄陸可汗632-634 / 沙鉢羅咥利失可汗634-639 / 乙毘咄陸可汗638-642 / 乙屈利失乙毘可汗639-640 / 乙毘沙鉢羅葉護可汗640-641 / 乙毘射匱可汗641-651 / 沙鉢羅可汗651-657
弥射家

奚利?咄陸可汗657-662 / 興昔亡可汗元慶685-693 / 興昔亡可汗献708-717 / 興昔亡可汗震735-736
歩真家

継往絶可汗657-666 / 竭忠事主可汗686-703 / 十姓可汗懐道704-708 / 十姓可汗マ740-742


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