太祖 莫登庸
莫朝
初代皇帝
国号大越
王朝莫朝
在位期間1527年 - 1529年
都城昇龍(現ハノイ)
姓・諱莫登庸
諡号仁明高皇帝
廟号太祖
生年洪徳14年(1483年)?
没年広和元年8月22日
(1541年9月12日)
父莫檄
母ケ氏孝
后妃阮氏玉?
陵墓安陵
元号明徳
莫 登庸(ばく とうよう、マク・ダン・ズン、ベトナム語:M?c ??ng Dung、1483年? - 1541年9月12日)は、ベトナム莫朝の初代皇帝。廟号は莫太祖(M?c Thai T? マク・タイ・トー)。
後黎朝の朝廷に仕え、度重なるクーデターなどの情勢の混乱に乗じて権力を奪取し、主君の昭宗を弑殺、その弟の恭皇を傀儡として禅譲を強要し、自ら皇帝に即位して莫朝を建国した。しかし黎朝の皇族の生き残りにより樹立された亡命政権との間で統治圏は二分され、さらに外交面では中国の明朝による圧迫を招いた。ベトナムの歴史書である大越史記全書では、「奪取黎朝天下,僭稱位號」と記され僭称者として扱われた[1]。 1483年に宜陽(現在のハイフォン市キエントゥイ県)で生まれたと伝わる。陳朝の状元合格者であった莫挺之の七世孫に当たる[2]。幼少期は家庭が貧しく、生活のため父と共に漁業に従事して生計を立てていた。やがて成長すると朝廷に仕え、前黎朝の皇帝である威穆帝の身辺警護を命じられた[2][3][4]。 威穆帝が暴政の末反乱の中で没し、代わって従兄弟の襄翼帝
生涯
黎朝に仕官
陳真が朝廷を掌握すると、莫登庸は長男の莫登瀛を陳真の娘と結婚させて姻戚関係を結んだ。しかし陳真は専横を嫌った昭宗に暗殺されるも、その朋党の阮敬・阮?による反乱により昭宗は首都昇龍を追われ、阮弘裕の下へと逃亡した[11]。ここで莫登庸は昭宗を宝州に迎え入れてその身柄を保護し、以降も阮敬・阮?の反乱軍の鎮圧で功を上げた事で、阮弘裕に代わって昭宗の信頼を得た。これに対し鄭綏らは対立皇帝として最初に黎榜(中国語版)、次いで黎?(中国語版)を擁立し莫登庸に対抗した[12]が、莫登庸は鄭綏の軍を大破して黎?を殺害し[13]、阮敬・阮?らの率いる反乱軍も降伏させるなど、その勢力を徐々に拡大していった[14]。こうして1521年、仁国公に封じられた莫登庸は軍権を掌握し、同年には陳ロの子の陳?率いる反乱軍の残党を一掃[15]、翌年には黎克綱・黎伯孝の反乱を鎮圧した[16]。 権勢を拡大した莫登庸は昭宗を支配下に置くべく、宮廷に派遣した侍女を通して昭宗の一挙一動を逐一監視・報告させるなど、その身柄を圧迫した。これに耐えかねた昭宗は1522年、首都の昇龍を密かに脱出し、山西に拠点を置き莫登庸と対立する鄭綏の下に逃亡した。これを知った莫登庸は「昭宗は奸臣に唆されて身柄を連れ去られた」として、昭宗の弟であった黎椿(恭皇帝)を新たな皇帝として擁立した[16]。 昭宗は当初大きな勢力を持っていたが、佞臣である宦官の范田が保身のために鄭綏の部下の殺害を昭宗に勧めるなどしたため、鄭綏との関係が悪化した[17][14]。莫登庸は昭宗の陀陽王への降格を宣言し、1525年にはついに昭宗の身柄を奪い、昇龍に監禁した[18]上で沛渓伯范金榜 こうして1527年、莫登庸は恭皇より帝位の禅譲を受け、新王朝を創設した(莫朝)。元号を明徳と改め、建国の功臣に対する封爵を行った。また恭皇を泰王に降封した後に、母の鄭氏鸞
簒奪前夜
皇帝として親政
1529年、老齢のため子の莫登瀛(廟号:莫太宗)に譲位し、自らは太上皇に即位した。退位後は宜陽県古斎の祥光殿にて幼少期同様に釣魚を楽しむ生活を送った[24]が、その一方で莫朝の朝政の実権はまだ莫登庸が握っており、莫登瀛政権を外部から支援する役割を担う事が真の目的であったという[25][26]。 1530年、黎朝の宗室の外孫を名乗った黎意
旧黎朝勢力との戦い
その後も黎朝の遺臣による反乱は相次ぎ、莫登庸は農民から槍・刀・ナイフなどの武器を没収し、違反者には刑罰を定めた。これにより莫朝の治安は好転し、「道端の拾い物を収奪する者はおらず、戸締まりをせずとも外を出歩ける」と言われるほどであったという[22]。 遡って黎朝の昭宗の治世において既に、昭宗の母の鄭氏鸞は中国の明に対して、莫登庸による国主への圧迫を訴えていた。即位したばかりの嘉靖帝は鎮圧軍を派遣したものの、直後に発生した龍州での反乱の鎮圧のため引き上げてしまった。また1525年には昭宗自らが明への朝貢の使節を派遣しようとしていたが、莫登庸はこれを阻止していた。翌年には莫登庸は欽州の判官であった唐清
明への恭順
1528年、莫登庸は明への使者を派遣し、黎朝の子孫は断絶しており皇位の継承者は存在しないと報告し、また群臣の推戴と庶民の支持を十分に得ているとして、安南王への冊封を要求した。これに対し嘉靖帝は密かに人を派遣して現地の調査を命じたが、その結果莫登庸による簒奪の経緯と、各地の黎朝の旧皇族たちの存命を確認したため、莫朝の使者を痛烈に罵倒した。莫登庸はこれを多いに恐れ、多額の貢納金を支払う事でなんとか明朝との関係を維持する事ができた[23]。