荼枳尼天
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「ダーキニー」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ダーキニー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
荼枳尼天
(剣と宝珠を持つ)
仏像図彙 1783年

荼枳尼天(だきにてん)は、仏教[1]夜叉の一種とされる[2]

「荼枳尼」という名は梵語のダーキニー(??kin?)を音訳したものである[1]。また、荼吉尼天[1]、?枳尼天[1]とも漢字表記し、?天(だてん)とも呼ばれる。荼枳尼“天”とは日本特有の呼び方であり、中国の仏典では“天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記される。ダーキニーはもともと集団や種族を指す名であるが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになった。日本では稲荷信仰と混同されて習合[1][3]、一般に白狐に乗る天女の姿で表される[1][4]。狐の精とされ、稲荷権現、飯綱権現と同一視される[5]。また辰狐王菩薩とも尊称される[4]。剣[1]宝珠[1]、稲束、鎌などを持物とする。
起源

荼枳尼天の起源であるインドのダーキニーは、裸身で虚空を駆け[6]、人肉を食べる魔女である[7]。ダーキニーの起源は明らかでないが[6]ヒンドゥー教もしくはベンガル地方の土着信仰から仏教に導入されたと考えられている[8]。坂内龍雄によれば元はダーキンという名前の地母神で、ベンガル西南のパラマウ地方(Palamau)においてドラヴィダ族のカールバース人によって信仰されていたという[9]。土地を支配し育む神の配偶神であり、豊穣を司る農耕神であったという[9]立川武蔵によれば、ダーキニーは仏教に取り入れられたのち、ヒンドゥー教でも女神として知られるようになった[6]。もとはベンガル地方の女神カーリーの侍女で、後にカーリーがヒンドゥー教の神シヴァの妃とされたため、ダーキニーもシヴァの眷属とされた、と立川は説明している[8]。また、津田真一のいう「尸林の宗教」の巫女に起源を求める説もある(後述)。
ヒンドゥー教ダーキニーとヨーギニー(中央カーリーの両側)。西ベンガル州の祭典

ヒンドゥー教ではカーリーの眷属とされ[2]、カーリーに付き従って尸林をさまよい、敵を殺し、その血肉を食らう女鬼・夜叉女となっている[10]
インド仏教
大乗仏教 (雑密)

大乗仏教ではダーキニーは羅刹女の類であり、荼枳尼の害を除くための呪文などが説かれている。また、人間と獅子との間に生まれた子が、荼枳尼や荼伽(ダーカ・男のダーキニー)となり[注 1]、初めは鳥獣を、後には人肉を食うようになったとの話も見られる。
中期密教

中期密教では大日如来毘盧遮那仏)の化身である大黒天によって調伏され、死者の心臓であれば食べることを許可されたという説話が生まれた[注 2]。大黒天は尸林で荼枳尼を召集し、降三世の法門によってこれを降伏し仏道に帰依させた。そして「キリカク」という真言を荼枳尼に授けたとされる。自由自在の通力を有し、6ヶ月前に人の死を知り、死ぬまではその人を加護し、死の直後に心臓をとってこれを食べるといわれる[10]。人間には「人黄」[注 3]という生命力の源があり、それが荼枳尼の呪力の元となっているのである[12]
後期密教

インドの後期密教においては、タントラシャクティ(性力)信仰の影響で、裸体で髑髏(どくろ)などを持つ女神の姿で描かれるようになっていった[13]。明妃と呼ばれる女性配偶尊として登場する[14]。髑髏杯(カパーラ)や肉切包丁(カルトリ)を手にした裸の女性の姿で表わされ、ヨーギニー(瑜伽女)とも呼ばれる[7]無上瑜伽タントラの密教修行において、行者の性的パートナーの役割を担う[15]。仏教学者の津田真一は、後期密教のダーキニーは7-8世紀のインドでオルギー的宗教儀礼を行っていた魔女たちの集団であったと想定した[16]田中公明はこの津田の仮説を下敷きにして、ダーキニーは中世インドの尸林で祀られていた土着宗教の女神[注 5]の眷属であったが、その女神の祠堂に仕える巫女もまたダーキニーと呼ばれたと推察している[18]
日本胎蔵曼荼羅・外金剛部院の荼吉尼衆清盛と荼枳尼天 (歌川国芳
盛衰記人品箋 1840年弘誓寺(丹波篠山市山門に祀られる
木製の荼枳尼天(制作年不明)
伝来

平安初期に空海により伝えられた真言密教[注 6]では、荼枳尼は胎蔵曼荼羅の外金剛院・南方に配せられ、奪精鬼として閻魔天の眷属となっている[19]。半裸で血器や短刀、屍肉を手にする姿であるが、後の閻魔天曼荼羅では薬袋らしき皮の小袋を持つようになる[20]。さらに時代が下ると、その形像は半裸形から白狐にまたがる女天形へと変化し、荼枳尼“天”と呼ばれるようになる。また、辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)[1]、貴狐天皇(貴狐天王、きこてんのう)とも呼ばれる[21][22]
中世荼枳尼天曼荼羅(大阪市立美術館蔵、室町時代)

中世になると、天皇の即位灌頂において荼枳尼天の真言を唱えるようになり、この儀礼で金と銀の荼枳尼天(辰狐)の像を左右に祀るという文献も存在する[23]


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