荻生 徂徠
(おぎゅう そらい)荻生徂徠(『先哲像伝』より)
人物情報
全名荻生.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}双松(なべまつ)
別名茂卿(もけい)(字)、惣右衛門(そうえもん)(通称)、?園(けんえん)(号)[1]
生誕 (1666-03-21) 1666年3月21日[1]
日本、武蔵国江戸[1]
死没 (1728-02-28) 1728年2月28日(61歳没)[1]
学問
時代江戸時代中期
研究分野儒学、文献学者
特筆すべき概念古文辞学の確立
影響を受けた人物伊藤仁斎、李攀竜、王世貞
影響を与えた人物太宰春台、服部南郭、安藤東野、山県周南、平野金華
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荻生 徂徠(おぎゅう そらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。
名は双松(なべまつ)、字・実名は「茂卿」で、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読む[2]。通称は惣右衛門(そうえもん)[2]。徂徠(そらい)と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、また、?園(けんえん)とも号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される[2]。本姓は物部氏で、「物徂徠(ぶっそらい)[1]」「物茂卿」とも号した[2]。
父は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の侍医だった荻生景明。弟は第8代将軍となる徳川吉宗の侍医を務め、明律の研究で知られた荻生北渓[3]。 朱子学や伊藤仁斎の仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜した。古代の言語を全く知らないと朱熹を批判し、多くの場合、仁斎をも批判した。ただし、仁斎の解釈への批判は、それに相当する記述が『論語古義』に見えない場合もある。 江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎や林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りに触れた父が江戸から放逐され、それによる蟄居に伴い、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・千葉県茂原市)に移った[4]。ここで主要な漢籍や和書、仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。元禄5年(1692年)、父の赦免で共に江戸に戻り、ここでも学問に専念した。芝増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられたといわれている(「#徂徠豆腐」参照)。 元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢保明(やなぎさわ やすあきら)[1]に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍・綱吉の面識も得ている。吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している[2]。宝永6年(1709年)、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・?園塾(けんえんじゅく)を開いた。やがて徂徠派という一つの学派(?園学派)を形成するに至る。なお、塾名の「?園」とは塾の所在地・茅場町にちなむ(隣接して宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 という俳句がある)。 荻生徂徠墓(東京都港区) 享保7年(1722年)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問に与った。追放刑の不可を述べ、これに代えて自由刑とすることを述べた。豪胆で自ら恃むところ多く、支那趣味を持っており、中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて享保13年(1728年)に死去、享年63。墓所は東京都港区三田4丁目の長松寺(ちょうしょうじ)にあり[1]、昭和24年(1949年)に国の史跡に指定された。 荻生家は現代まで東京で続いており、伝来していた自筆稿本は1970年代にマイクロフィルム撮影され全集(後述)校訂に利用された[5]。荻生家は2022年、これら資料約150点を公共の文化財として保存・活用してもらうため東京大学駒場図書館に寄贈した[5]。儒学や経世論以外に、明代漢詩の注釈書『五言絶句百首解』、徂徠が考案したとされる独自ルールの広将棋解説書『広象棋譜面』、琉球王国江戸上り使節の記録『琉球聘使記』などが含まれる[5]。 朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と批判、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(?園学派、日本の儒教学派においては古学に分類される)を確立した。支那趣味を持ち、文学や音楽を好んだ徂徠は、漢籍を読むときも訓読せず、元の発音のまま読むことによって本来の意味が復元できると考えた。 主著『弁名』『弁道』[6]では、「名」と「物」の関係を考察した。
概要
生涯
子孫
思想
徂徠学の成立
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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