おぎわら たい
荻原 耐
没年月日不詳年
出生地 日本
死没地 フィリピン
職業映画監督、脚本家、映画プロデューサー
ジャンル劇映画(現代劇、サイレント映画・トーキー)、ドキュメンタリー映画
活動期間1932年 - 1945年ころ
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荻原 耐(おぎわら たい)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサーである[1][2][3][4][5][6]。「萩原 耐」(はぎわら たい)[3][4][6]は誤記である[1][2][4][5][6]。詩人・ドイツ文学者から映画界に転向した人物である[7]。 1900年(明治33年)前後に生まれる。
目次
1 人物・来歴
2 フィルモグラフィ
2.1 松竹蒲田撮影所
2.2 P.C.L.映画製作所
2.3 東宝映画東京撮影所
2.4 東宝文化映画部
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
人物・来歴
卒業後は、同志社でドイツ語の講師を務め、『同志社百年史』の記録にも残っているが、映画界に転向する[7][12]。1932年(昭和7年)、松竹蒲田撮影所に入社、清水宏に師事する[3][4]。1935年(昭和10年)3月7日に公開された『東京の英雄』(監督清水宏)でセカンド助監督を務めて以降、作品歴が途切れる[3][4]。
1937年(昭和11年)10月5日に発行された『毎日年鑑』(毎日新聞社)によれば、当時は東京市世田谷区喜多見町100番地(現在の東京都同区成城)にあったピー・シー・エル映画製作所の製作部製作課に所属しており、同課にはほかに矢倉茂雄、瀧村和男(同部企画課長兼務)、武山政信、田村道美、氷室徹平がいた[13]。同部演出課には、木村荘十二、山本嘉次郎、矢倉茂雄(製作課兼務)、成瀬巳喜男、岡田敬、伏見修、村山知義、瀧澤英輔、大谷俊夫、山中貞雄、渡邊邦男、松井稔がおり[13]、荻原は山本嘉次郎、松井稔、大谷俊夫、岡田敬の監督作を製作した記録が残っている[3][4]。同社が同年9月10日に合併して東宝映画を形成し、同社の撮影所が東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)となった後も、継続的に入社した[1][3][4]。引き続きプロデューサーとして、矢倉茂雄、山本薩夫の作品を製作したのち、1938年(昭和13年)1月21日に公開された『人生競馬』で映画監督としてデビューした[1][3][4][5]。同年5月11日に公開された監督第2作『新柳桜』の後、翌1939年(昭和14年)8月10日に公開された矢倉茂雄監督の『江見家の手帖』にシナリオを提供したのを最後に、東宝文化映画部に異動、ドキュメンタリー映画に転向した[1][3][4]。
当時の東宝文化映画部は、製作部長に村治夫、演出課に荻原のほか野田真吉、撮影課に石川東橘、三木茂、玉井正夫、岩淵喜一、吉野馨治、藤田英次郎らが加わった時代であった[14]。1941年(昭和16年)に製作された『村の学校図書館』のシナリオは、同年4月に発行された『新兒童文化』第2号(有光社)に掲載された[15]。1943年(昭和18年)1月8日に公開された『恙虫記』が、記録に残る荻原の最後の監督作である[1][3][4]。山本嘉次郎の回想によれば、荻原は同年、山本のもとを訪れ「東宝をやめ、日映の特派員となって、比島に行く」と言ったという[16]。日映こと日本映画社は、東宝文化映画部等の各社文化映画部門を戦時統合したものであるが、いずれにしても特派員として比島(フィリピン諸島)へ行くという荻原に対し、山本は「強く反対した」が、荻原は「そういう死に直面したところで、自分の力を試して見たい」と述べたという[16]。白井茂の回想によれば、荻原は日映がマニラに置いた支局に属し、1945年(昭和20年)ころ、撮影技師の今村秀夫と組み、撃兵団の要請によって戦闘記録撮影のためさらに南方へ向かったという[17]。