荻原碌山
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本名荻原 守衛
誕生日 (1879-12-01) 1879年12月1日
出生地 日本長野県南安曇郡東穂高村
死没年1910年4月22日(1910-04-22)(30歳)
死没地 日本東京府東京市
墓地安曇野市穂高
芸術分野彫刻
教育アカデミー・ジュリアン彫刻部
代表作女
受賞入賞 ? 第二回文展
1908年 文覚

後援者相馬愛蔵
相馬黒光
活動期間1904年 - 1910年
影響を受けた
芸術家オーギュスト・ロダン
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荻原 碌山(おぎわら ろくざん[1] / おぎはら ろくざん[2][3]1879年明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である[註 1]長野県東穂高村(現:安曇野市)出身[5]
経歴
少年時代

守衛は幼い頃から病弱で、大好きな読書をしたり、絵を描いて過ごしていた。17歳の時、通りがかりの女性に声をかけられる。田舎では珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳をした美女の名は相馬黒光。尊敬する郷里の先輩相馬愛蔵の新妻で、守衛の3歳年上であった。東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。碌山はそんな黒光から、あらゆる芸術についての知識を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。やがて芸術への情熱に目覚めた碌山は洋画家になろうと決意する。
海外留学

本格的な勉強をしようと、1901年 (明治34年) アメリカニューヨークに渡り絵画を学ぶ。アルバイトをしながら、アカデミーで西洋画の基礎を学び、来る日も来る日もデッサンを続けた。人間を描くことに夢中になった彼は、目に見えない骨格や筋肉の動きまで徹底的に研究。つぶさに肉体を写し取ろうとした。しかし、守衛はまだ本当に描くべきものを見出せずにいた。そんな修行の日々に1903年 (明治36年) アメリカからフランスパリに訪れた守衛は衝撃的な作品に出会う。1904年 (明治37年)に後に近代彫刻の父といわれる オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。守衛は「人間を描くとはただその姿を写し取ることではなく、魂そのものを描くことなのだ」と気づかされる。1906年 (明治39年) にはアメリカから再度渡仏。アカデミー・ジュリアンの彫刻部教室に入学し、彫刻家になろうと決意する。学内のコンペでグランプリを獲得するほどの実力を身につけていった。1907年 (明治40年)ロダンに面会。「女の胴」「坑夫」などの彫刻を制作。イタリア、ギリシャ、エジプトを経て帰国。
黒光との再会

帰国した守衛は東京新宿にアトリエを構え、彫刻家・荻原碌山として活動を始める。そんな碌山に運命の再会が待っていた。憧れの女性、黒光である。黒光はその頃、夫の相馬愛蔵と上京し、新宿に中村屋を開業していた。碌山は黒光の傍で作品を作る喜びに心躍らされた。相馬夫妻はそんな碌山を夕食に招くなど、家族ぐるみのつき合いが始まった。黒光の夫、愛蔵は仕事で家を空けることも多く、留守の時には碌山が父親代わりとなって子供たちと遊んだ。黒光は碌山を頼りにし、碌山はいつしか彼女に強い恋心を抱くようになった。しかし、それは決して許されない恋であった。ある日のこと、碌山は黒光から悩みを打ち明けられる。それは夫の愛蔵が浮気をしているという告白だった。愛する女性の苦しみを知り、碌山の気持ちはもはや抑えようにもない炎となって燃え始めた。碌山は当時、パリにいた友人の高村光太郎宛ての手紙で「我 心に病を得て甚だ重し」と苦しい胸のうちを明かしている。
文覚

行き場ない思いを叩きつけるかのように碌山はひとつの作品を作り上げる。1908年 (明治41年) 第二回文展で入選した「文覚」である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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