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荘献世子
宗親一世
王世子
英祖二世
思悼世子像(19世紀初頭、作者未詳)
続柄英祖第二子
諡号思悼綏徳敦慶弘仁景祉章倫隆範基命彰休賛元憲誠啓祥顕熙荘献世子(英祖による)
思悼綏徳敦慶弘仁景祉章倫隆範基命彰休賛元憲誠啓祥顕熙神文桓武荘献広孝懿皇帝(高宗による)
出生地 朝鮮国、漢城府、昌慶宮
没死地 朝鮮国、漢城府、昌慶宮
義母貞聖王后徐氏、貞純王后金氏
配偶者恵慶宮洪氏(洪鳳漢の娘)
子女懿昭世子、正祖、恩彦君、恩信君(朝鮮語版)、恩全君
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荘献世子(そうけんせいし、チャンホンセジャ、雍正13年1月21日(1735年2月13日) - 乾隆27年閏5月21日(1762年7月12日))は、李氏朝鮮の第21代国王英祖の次男。諱は愃(ソン、?)。思悼世子(しとうせいし、サドセジャ、????)とも呼ばれる。第22代国王正祖の父。第23代国王純祖の祖父、第24代国王憲宗の高祖父、第25代国王哲宗の曾祖父である。 異母兄である孝章世子がいたが、早くに夭折し英祖唯一の王子という理由で2歳で王世子に冊立され、10歳で恵慶宮洪氏と結婚した。少論派の学者たちから学問を学び、朝廷を掌握した老論派と対立した。1749年に世子が英祖の代理として政務を処理するようになると、老論派は貞純王后(英祖の妃)とともに英祖に讒言し、世子を陥れた。英祖との葛藤で世子の李愃は精神を病むようになったと『恨中録』(恵慶宮洪氏の随筆)には記録されている。 ただ、今日の学会の主流的な見方は、政争は要因として全くないわけでないが、両者の葛藤の主たる要因は、英祖の荘献世子への後継者としての過度の期待が叱責と侮辱という形で繰り返され、その重圧に耐えかねた荘献世子が精神に異常をきたすようになり、ついに殺人を犯すほどの不行状に至ったところで、父が子の排除を決断したというものである。 1762年に老論派が糸を引いた羅景彦 関係名称生没年備考 身分名称氏族生没年親備考 名称生母生没年配偶者子女備考 名称生母生没年配偶者子女備考 配色: 朝鮮国王 追尊国王・世子 大君・大院君 宗親 両班
生涯
家族
両親・兄弟姉妹
父 英祖1694年-1776年第21代国王。
母 暎嬪李氏1696年-1764年英祖の側室。
姉 和平翁主
姉 和協翁主1733年-1752年申光綏正室。
妹 和緩翁主1737年-1808年鄭致達正室。
妃嬪
正室献敬王后豊山洪氏1735年-1815年永豊府院君 翼靖公 洪鳳漢第14代国王宣祖と仁穆王后夫妻の血を引く。第22代国王正祖の実母。
側室粛嬪林氏不詳生年不詳-1773年不詳第25代国王哲宗の実の曾祖母。女官出身で世子の寵愛を受け懐妊し、良媛に封じられた。夫の死後、宮中から追放され号を剥奪されたが、正祖の命令で復活する。死後の1899年(高宗36年)に高宗の命令で粛嬪と追号された。
側室景嬪朴氏不詳生年不詳-1762年不詳世子の義理の祖母の仁元王后(祖父の第19代国王粛宗の3番目の王妃)に仕えた女官であった。法律上、目上の人の物(仕えている者も含む)に許可無く手を出すことは禁じられていたので、父の英祖の怒りを買った。当初、守則になるが女官身分の扱いであった。しかし精神病を患っていた世子によって殴殺された。1899年に高宗の命令で貴人に封じられ、1901年に景嬪と追号された。
側室守則李氏不詳生没年不詳不詳後に正祖より貞烈の称号を与えられた。
王子
懿昭世子 (李?)献敬王后1750年-1752年なしなし夭逝。
正祖(李?)献敬王后1752年-1800年孝懿王后 金氏(本貫は清風)2男3女第22代国王(在位:1776年-1800年)
恩彦君 (李?)粛嬪林氏1754年-1801年常山郡夫人 宋氏(本貫は鎮川)8男1女第25代国王哲宗の祖父。
恩信君
恩全君 (李?)景嬪朴氏1759年-1778年郡夫人 趙氏(本貫は平壌)なし子が無く、異母兄の恩彦君の四男の豊渓君李?を養子にした。
王女
清衍郡主献敬王后1754年-1821年光恩尉 金箕性(本貫は光山)2男1女子女に関しては他に5男1女がいたが早世したという。
清?郡主献敬王后1756年-1802年興恩尉 鄭在和(本貫は迎日)1男2女
清瑾翁主景嬪朴氏1758年-1835年唐恩尉 洪益惇(本貫は南陽)なし子が無く養子を迎えた。
系図李氏朝鮮後期系図
仁祖第3子
顕宗
第18代国王 福寧君
麟坪大君
粛宗
第19代国王 義原君
福寧君第2子
景宗
第20代国王英祖
第21代国王延齢君
粛宗第6子 安興君
義原君第2子
真宗
孝章世子荘祖
荘献世子 李鎮翼
安興君第1子
正祖
第22代国王恩彦君
荘祖第2子恩信君
荘祖第4子 李秉源