荘厳院(しょうごんいん、? - 寛永21年7月3日(1644年8月5日)は、江戸時代初期の女性。仙台藩初代藩主・伊達政宗の側室。 柴田信恒の娘として生まれる。名は宏(弘)。仙台藩主・伊達政宗の側室となり、阿茶の局と称される。 慶長18年(1613年)に政宗の九男・宗実(喝食丸)を産み、寛永13年(1636年)に政宗が死去すると落飾して果学尼と号する。寛永16年(1639年)、宗実が亘理郡亘理城主・伊達成実の養嗣子に迎えられると、宗実の後見役を命じられた弟の常弘らと共に亘理へ移った。 寛永21年(1644年)7月3日死去。墓所は亘理称名寺 荘厳院らが亘理へ移った際に、常弘の嫡男・常元は仙台本藩に残り別家を興した。 この仙台本藩の柴田家は、第3代・常春が伊達綱村の側近として重用されたことにより、着坐の家格に列し、柴田郡村田2000石を拝領した。また常春は、一家(家格)の四保柴田氏と紛らわしいことを理由に、綱村の命により芝多に名字を改めさせられている。 芝多家はその後奉行職(他藩の家老に相当)を多数輩出し、幕末の慶応2年(1866年)に村田から加美郡谷地森(現:加美町谷地森)に移され、廃藩を迎えた。 ┏柴田常元━柴田常信─芝多常春(大波元重の子) ┏柴田常弘━┫柴田信恒━┫ ┗柴田常氏 ┗荘厳院 ┣━━━━伊達宗実 伊達政宗
生涯
芝多(柴田)家
脚注
参考文献
『亘理町史』上巻(宮城県亘理郡亘理町、1975年)
『村田町史』(宮城県柴田郡村田町、1977年)