荒舩清十郎
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日本政治家荒舩清十郎あらふね せいじゅうろう
生年月日1907年3月9日
出生地 埼玉県秩父郡高篠村(現秩父市
没年月日 (1980-11-25) 1980年11月25日(73歳没)
死没地神奈川県相模原市 国立相模原病院
出身校明治大学専門部中退
所属政党(立憲政友会→)
日本自由党→)
(無所属→)
自由党→)
自由民主党
称号正三位
勲一等旭日大綬章
紺綬褒章
衆議院永年在職議員
子女養子・荒舩洋資(埼玉県議会議員東映フライヤーズ選手)
第40・42代 行政管理庁長官
内閣三木改造内閣福田赳夫改造内閣
在任期間1976年9月15日 - 1976年12月24日
1977年11月28日 - 1978年12月7日
第49代 衆議院副議長
在任期間1970年1月14日 - 1972年1月29日
衆議院議長船田中
第34代 運輸大臣
内閣第1次佐藤第2次改造内閣
在任期間1966年8月1日 - 1966年10月14日
衆議院議員
選挙区(埼玉県全県区→)
埼玉県第3区
当選回数13回
在任期間1946年4月10日 - 1947年1月
1952年10月1日 - 1980年11月25日
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荒舩 清十郎(あらふね せいじゅうろう、1907年明治40年)3月9日[1] - 1980年昭和55年)11月25日[1])は、日本政治家実業家運輸大臣(第33代)、行政管理庁長官(第40・42代)、衆議院副議長(第49代)。衆議院議員(13期)。位階正三位勲等は勲一等。東映フライヤーズのプロ野球選手(1970年 - 1972年)、埼玉県議会議員(1期、1979年4月 - 1983年3月)であった荒舩洋資は甥であり後に養子となる[2]
来歴・人物

埼玉県秩父郡[1]高篠村(現秩父市)出身。先代・清十郎の長男[3]埼玉県立工業学校卒業[4]明治大学専門部中退[1]織物製造業を経営[3]

「清十郎」は先祖代々の襲名で、本人は16代目にあたる(以後は襲名者は出ていない)[5]。ほとんどのメディアでは「荒船」と表記していたが、「荒舩」が正しく、本人は誤記されると怒ったという[5]。先祖は鎌倉で船大工をしており、公家の船しか作らなかったため「舩」の字を用いた、とされる[5]

秩父銀行頭取となった後、青年団の幹部を務めていたこともあり、当時埼玉県の財政圧迫の主要因となっていた荒川の洪水を防ぐために、各青年団に檄を飛ばし霞堤の取り壊し運動をするも当局の取り締まりにかなわず断念。その際、憲兵隊分隊長に「そういう非常手段をとるよりも、もっと力をあわせて上流にダムをつくるなどの政治手段をとれ」と諭され、荒川の問題を政治の力で解決できると確信し、政界を目指す[4][6]1937年(昭和12年)4月、高篠村会議員。1940年(昭和15年)1月、立憲政友会に所属で埼玉県会議員に初当選[7]1944年(昭和19年)11月から1945年(昭和20年)11月まで副議長[1]1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)まで高篠村村長[4]1946年(昭和21年)日本自由党公認で第22回衆議院議員総選挙に埼玉県全県区から立候補して初当選[1][8][9]。その後、1947年(昭和22年)3月に公職追放を受け失職したが、1950年(昭和25年)10月に追放を解除され、1952年(昭和27年)10月、第25回総選挙埼玉県第3区から自由党所属で出馬して返り咲き当選を果たす[7][10]。保守合同後は自由民主党石井派に属していたが、第28回衆議院議員総選挙後に大野伴睦睦政会)派に移り[11]、大野没後は後述の通り、交友クラブの発足に尽力し、川島正次郎とそれを継承した椎名悦三郎からの信任が厚かった。また、1953年(昭和28年)には、議院運営委員会委員として議事進行係を務める。党役職としては副幹事長、総務会副会長、顧問を歴任[4]

1955年(昭和30年)12月、高篠村立高篠中学校敷地として土地を寄付により1957年(昭和32年)4月24日紺綬褒章受章、功績顕著として木杯一組台付を賜った[12]

衆議院では1959年(昭和34年)6月議院運営委員長1960年(昭和35年)12月決算委員長1963年(昭和38年)10月予算委員長を歴任[4]

また、容姿に似合わず酒はあまり飲まなかったという[13]
運輸大臣就任と深谷駅問題

1966年(昭和41年)8月、第1次佐藤第2次改造内閣の運輸相に抜擢されるが、10月1日からのダイヤ改正に際して、国鉄に要請して自分の選挙区(当時の埼玉3区)にあった深谷駅急行停車駅[注釈 1]に指定させたため、世論の批判を受ける。「黒い霧事件 (政界)」も参照

問題が表面化した9月3日の夜、荒舩は自宅で新聞記者に「私のいうことを国鉄が一つぐらい聞いてくれても、いいじゃあないか」[15][注釈 2]と発言した。9月12日の参議院運輸委員会でこの問題が取り上げられ、石田礼助国鉄総裁は「いままでいろいろ御希望があったのだが、それを拒絶した手前、一つくらいはよかろうということで、これは私は心底から言えば武士の情けというかね」[16]と答弁した[注釈 3]。さらに、この問題を皮切りに、以下のような疑惑が次々と国会で追及されることになる[17]

衆議院決算委員長在任中の1961年2月、田中彰治が関与したとされる大阪拘置所の土地交換に関わる恐喝疑惑に関し、田中とともに非公式に大阪に赴き、土地交換の関係者に面会していた[18][19]

運輸大臣就任直後の1966年8月に各業界との懇談会を開いた際、荒舩の個人後援会「瀞白会」の役員が、業者に後援会への加入を勧誘した[20]

1966年9月にソウルで開かれた日韓経済閣僚懇談会に出席した際、民間業者2人を同行した[21]。荒舩はかれらが自身らの商用で行くというので口を利いただけだと弁明したが、入管の出国カードには2人が荒舩運輸相随行員と記されていたことや運輸省から駐韓日本大使館に2人は秘書でないが同行させるとの連絡が入っていたことが明らかになった。

後援会の会員と荒舩が上野駅の構内食堂を経営していたが、その後新聞でもとくに名を伏せるとされた女性と荒舩は経営を代わっており、その食堂がはやっているため拡張を計画し、それを国鉄に陳情、国鉄側は困っていると報じられた[22]

こうした一連の疑惑が積み重なり、荒舩は10月11日に辞表を提出した。辞任時の記者会見では「悪いことがあったとは思わない。ただ、今は世論政治だから、世論の上で佐藤内閣にマイナスになると、党員として申訳ないので辞める」[23]と語っている。所属派閥の領袖であった自民党副総裁川島正次郎は、10月29日の記者会見で「荒船〔ママ〕君はやっぱり“野におけレンゲ草[注釈 4]だったよ」[24]と評した。

宝石』(光文社)1966年12月号は「'66年度“宝石最低殊勲賞”政界の部“最低放言賞”」に荒舩を選び、選考委員の一人であった評論家大宅壮一は「ダイコンみたいなものだ」と評した[5]

1967年(昭和42年)の第31回総選挙で、埼玉3区から立候補した荒舩は、まず秩父神社で選挙演説を始め、「代議士が地元のために働いてどこが悪い。深谷駅に急行を止めて何が悪い」と演説し喝采を浴びると共に、そのあまりにもストレートな地元至上主義的な内容でマスコミ関係者の度肝を抜いた[25]
衆議院副議長就任と荒舩放言問題

1970年(昭和45年)衆議院副議長に就任した[1]

1972年(昭和47年)1月8日、自らの後援会「荒舩会」が開催した新年旅行の途上、列車内において講演し、その中で、1971年の沖縄国会(第67回臨時国会)会期中の学生らによる抗議デモ[注釈 5]に言及し「社会党共産党はじめとして、あらゆる自由民主党以外の政党は、沖縄返還反対だといって学生をおだてて火炎ビンを投げさせる」「学生に火炎ビンを投げさしたり、竹やりであばれさしたり、町中火をつけたりたのには日当五千円ずつ、一日に五千円ずつ払ってあばれさしたんだ。この金は隣の共産党の国からきている」などと発言した。またこの際、上越新幹線のルート決定について「新潟県では通産大臣をやっている田中角栄、それから群馬県では外務大臣福田赳夫、埼玉県は荒船〔ママ〕清十郎、この三人でどこに止めるか、どういうふうに通すかという特別委員になりましてきめたわけでございます」とも発言している[26]。この録音テープを日本共産党が入手して1月23日付の党機関紙『赤旗』紙上で暴露するとともに、24日の衆議院議院運営委員会において「公党に対するいわれのないひぼう」として追及した[27]


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