荒町_(仙台市)
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荒町
東側の町並み(2010年9月)
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日本
都道府県 宮城県
市町村 仙台市
行政区若林区
人口(2017年(平成29年)4月1日現在)[1]
 ? 合計1,073人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号984-0073
市外局番022[2]
ナンバープレート仙台

荒町(あらまち)は、宮城県仙台市若林区市中心部から見ると南東に位置する町である。もと米沢にあった新町(あらまち)が、領主の伊達氏に従って16世紀末に住民ごと岩出山に、続いて17世紀初めに仙台に移転して荒町と改称、さらに一度仙台の中で移転して現在地に落ち着いた。伊達御供の御譜代町の一つで、古くからの商店街として続いている。
概要

荒町は現在の地理でいうと、若林区の西の端、宮城県道235号荒井荒町線道路の西端で、国道4号(愛宕上杉通)から毘沙門堂前までの道の両側にあたる。1960年代から仙台市が進めた住居表示導入に伴う町名変更が及ばなかったところで、北や南との境界も少々入り組んでいる。北に接するのは、西から東へ、清水小路、東七番丁、東八番丁、東九番丁、連坊小路。南に接するのは、西から東へ、土樋、石垣町、弓ノ町である。現在の道路幅は片側1車線、計2車線の車道が9メートル、左右の歩道が3メートルの計12メートルである。バス路線が通り、朝夕の交通量が多い。

仙台でははじめ現在の本荒町に置かれたが、1628年頃に奥州街道沿いの現在地に移転した。奥州街道筋の町で、江戸に近い南東にあった。の専売権を与えられ、明治時代まで麹屋が多かった。江戸時代から現在まで、豪商が軒を連ねたり、中心商店街・繁華街になったことはないが、庶民的な商工業地であり続けている。町の守り神として奥州仙臺七福神の毘沙門堂(満福寺境内)があり、荒町住民が盛り立てる。祭礼では、江戸時代に相撲の興行、戦後は星空コンサートや夜空のオーケストラがあって活気づく。
歴史
荒町の割り出し

戦国時代伊達氏米沢を本拠にていたとき、新町は米沢六町のひとつで、その中でもっとも新しい町であったかと想像される[3]奥州仕置によって岩出山に転じることになった伊達政宗は、岩出山城下に区割りして作った新町に、米沢から移った新町の町人を住まわせた。仙台に移るときも住民を移し、同時に名を荒町と改めさせたらしい。

初め、荒町は仙台城下の中心である芭蕉の辻の南西、南北に走る奥州街道の一本西の裏通りに設定された。1628年(寛永5年)頃、仙台の南東に若林城が築かれると、そこの城下町整備とともに、仙台の城下町も南東方向に大きく範囲を拡張した。1627年(寛永4年)か1628年(寛永5年)頃に荒町も南東に移転し、奥州街道に沿う東西に長い町になった[4]

新しい荒町の西端で奥州街道は北に折れて田町となる。街道は国道4号で終わる現在の西端より伸び、東北学院大学があるブロックに突き当たる細い道である。東の端は毘沙門堂の前で、南鍛冶町と隣り合う。この東端が、仙台の城下町と若林の城下町の境界線で、荒町は仙台に属した[5]跡地は本荒町または元荒町と呼ばれ、幕末まで武家屋敷が並んだ。

仙台には24の町人町の序列を表す町列が定められており、荒町は御譜代町の中の6番目、全体の中でも6番目に位置づけられた[6]。町の行政は、肝入、検断という町役人が取り仕切った。
商業特権

江戸時代のはじめには、御譜代町に九月日市の特権が与えられた。これは、毎年9月に御譜代町のひとつが主要17品目の取引場所に指定され、他の町で指定品目の売買が禁止されるというものである。指定は交代制で6年に1度巡ってくる。城下の他の町の商人、外からやってきた商人は、その期間中は指定の町の商人に場所代を払って店を出した[7]

日市の制度は商業が未発達で常設店舗が少なかった時代のもので、慶安4年(1651年)10月に廃止された。かわりに日市銭を城下の全商人から取り立てて6年交代で町に配るようになった。日市銭は店の場所によって額が異なったが、荒町自身は上・中・下のうち下場所となった。

荒町だけの特権としては、麹の専売権があった[8]。江戸時代の大きな家では酒や味噌を製造する家が多かったが、麹の製造には特別な施設と管理が必要であった。その麹屋が荒町だけのものとされた。この特権は、延宝3年(1675年)閏4月の売り散らし令で廃止された。代わりに、他の町で麹室を設ける者は、一間室につき1か年金7切(銭で7000文)、半間室なら4切を役銭として取り立てた。町単位の特権は荒町の麹以外にもあり、売り散らし礼で廃止されたのは同じである。城下の外れにある寺社門前町である八幡町と宮町は、特別に役銭が免除の特権があったが、麹室についてはその免除が効かなかった[9]

荒町の麹独占は江戸時代後期までに復活し、明治初年の廃止まで維持されたようである[10]。麹屋には各店ごとの販売地域があり、客が来るとその住地に従って担当地域の店を紹介していた[11]
江戸時代の町並みと商況

町並みは、法定の区画である軒で計ると、各種史料に差があるが約90軒[12]で、人口は1852年(嘉永5年)に727人あった[13]

江戸時代の荒町には、清水小路(現在の愛宕上杉通)沿いに出た湧き水が流れ込む孫兵衛掘という用水路が通っていた。この堀には四ツ谷用水の一流も流れ込んだ[14]

街道筋ではあったが、蔵の数や日掛銭の課税からみると、荒町の繁栄は城下の平均よりやや下であったようである[15]。また、御譜代町の中で日市銭徴収基準の下場所とされたのは柳町と荒町だけであった。もっとも、24町のうち上場所は3、中場所は6しかなかったから、下場所だからといって寂れているとは限らない。

町並みの特徴は麹屋が多いことで、味噌屋と醤油屋も多かった。天保5年の味噌醤油仲間54人のうち、荒町は味噌醤油屋1、味噌屋2、醤油屋7の計10人を占めていた[16]。これらの製造が暇になる夏には団扇を作って売った。渋団扇は荒町の名物であった[17]。幕末の頃には回文を載せた渋団扇が荒町の特産品になっていた。

江戸時代の都市はしばしば大火に見舞われた。仙台は冬に乾燥する気候で、そのころ北西風が吹くため、ちょうど風下にあたる荒町は類焼しやすかった。

その中の一部をあげると[注 1]宝永4年2月13日(1707年3月16日)荒町の裏にある松山七左衛門屋敷の借宅、岡山忠兵衛の家から火が出て、166軒が焼けた[18]。被害は423戸ともいう[19]。そのうち荒町の被害は不明だが、続く20日(1707年3月23日)にまた大火があって、荒町は残らず焼けてしまった[18]


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