荒木村重
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 凡例荒木 村重
「太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重」
歌川国芳嘉永元年-2年(1848-49年)頃
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文4年(1535年
死没天正14年5月4日1586年6月20日
改名十二郎(幼名)、村重、道薫(
別名弥介、弥助(通称)、池田信濃守村重[1][2]
戒名秋英宗薫居士(古今茶人系譜)
心英道薫禅定門(荒村寺位牌)
墓所大阪府堺市堺区南宗寺
大阪府堺市堺区妙法寺(旧南宗寺寺地)
兵庫県伊丹市荒村寺
官位信濃守摂津守
主君池田勝正池田知正織田信長豊臣秀吉
氏族藤原氏秀郷流荒木氏
父母父:荒木義村、母:中川佐渡守妹
兄弟村重、野村丹後守室[3]、吹田村氏[4]
池田長正娘、北河原三河守某娘[注 1]
だし[5]
村次、村基、岩佐又兵衛ほか
特記
事項利休十哲の一人
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荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名利休十哲の1人である。
生涯
池田・織田家臣時代

天文4年(1535年)、荒木義村(信濃守)の子として生まれた[6][7]。母は中川佐渡守[注 2]の妹(『荒木略記』)[8]

幼名は十二郎[9](十次郎[7])。通称は、弥介[9]、または弥助(彌助)[7]

はじめ池田勝正(長正の次の当主)の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り、その一族衆となる。しかし、三好三人衆の調略に乗り、池田知正(長正の長男)と共に三好氏に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ、池田氏を掌握する。

元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて、三好氏から織田家に移ることを許された。

天正元年(1573年)、茨木城主となり、同年に信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。

一方、義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って、村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田氏を乗っ取る形となった(下克上)。

天正2年(1574年)11月15日、摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。

翌年、有馬郡の分郡守護であった赤松氏を継承する摂津有馬氏を滅ぼして、同郡を平定する。

村重は細川政権三好政権を通じての摂津統治の中心であった芥川山城越水城の両城を廃して、有岡城(伊丹城の改称)を中心とした新たな支配体制を構築した。

天正3年(1575年)、宇喜多直家に離反された浦上宗景を支援し、「宇喜多端城」(所在地不明)に浦上宗景を入城させる。この年の11月には「摂津守」を名乗っており[10]、同年7月に織田家重臣らが任官した際、村重も正式に任官したものとみられる[11]

以後も信長に従い、越前一向一揆討伐・石山合戦高屋城の戦い天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。
謀反詳細は「有岡城の戦い」を参照有岡城跡

天正6年(1578年)10月、三木合戦羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(理由は後述)。一度は糾問の使者(明智光秀松井友閑万見重元)に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹に戻った。

秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)を使者として有岡城に派遣し、翻意を促したが、村重は孝高を拘束して土牢に監禁した。

以後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功するが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。それでも、村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていた。

天正7年(1579年)9月2日、村重は有岡城を脱出し、尼崎城へ入った[12]。ただし、これは闇雲に逃走したわけではなく、毛利軍の将・桂元将の詰めていた尼崎へ援軍要請に向かった為である。現にその後も西へ逃亡することなく半年以上も尼崎に留まり、抗戦している[13]

天野忠幸は自身の書籍にて、乃美文書には村重は御前衆数百騎と共に、織田方の包囲網を突破する形で尼崎城に向かったと記されていることを主張している。また、小川雄は、通説で言われるような恐慌からくる敵前逃亡ではなく、第二次木津川口の戦いや中川・高山の降伏により補給路を絶たれたため、まだ毛利方(村上水軍)が補給路を確保していた尼崎城花隈城を確実に抑える事で、本願寺・毛利方との連携を維持するための戦略的撤退だったとする見方をしている[14]

11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに信長公記の原文「伊丹城相果たし御成敗之事」があります。


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