荒木又右衛門
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この項目では、武士について説明しています。映画については「荒木又右衛門 (1925年の日活映画)」をご覧ください。
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 凡例荒木又右衛門
本朝剣道客伝:荒木又右衛門(歌川国芳作)
別名保知、通称:又右衛門
桑名藩→浪人→大和郡山藩鳥取藩
氏族服部氏→菊山氏→荒木氏
父母父:服部平左衛門、養父:服部平兵衛
妻みの(渡辺氏)
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荒木 又右衛門(あらき またえもん、慶長4年(1599年) - 寛永15年8月28日1638年10月5日))は、江戸時代初期の武士、剣客[1]。名は保知(やすとも)、保和とも[1]鍵屋の辻の決闘での活躍で名高い[1]新陰流の剣豪。大和郡山藩の剣術師範を務める。
生涯
仇討ち事件までの経歴

慶長4年(3年説もある)、服部平左衛門の次男として伊賀服部郷荒木村で誕生。幼名を丑之助、あるいは巳之助ともいうが、これらは俗伝であり、正しい幼名は不明。

父・平左衛門は、藤堂高虎に仕えたが、淡路で浪人した後、備前岡山藩池田忠雄に召し抱えられた。平左衛門には渡辺数馬(内蔵助)という同僚がいた。この内蔵助の子に、みの(女)、数馬(二代目)、源太夫があり、のちに又右衛門はみのを嫁に迎え、二代目数馬らとは義兄弟の縁となる。

又右衛門は、兄・弥五助が池田家に仕えたこともあり、12歳のときに本多政朝の家臣・服部平兵衛の養子となった。しかし、元和8年(1622年)、本多家が姫路城主となったあと、28歳ごろに養家を離れて浪人し、生まれ故郷の伊賀に帰っている。故郷でははじめ菊山姓、のちに荒木姓を名乗った。また、剣術を学び、父からは中条流、叔父の山田幸兵衛から神道流を学んだといわれている。一方、15歳のころ柳生宗矩柳生三厳の門人となり柳生新陰流を学んだとする説が『柳荒美談』などにあるが『日本十大仇討録』の考察などにも見られる様に、既に何か一流を極めた後に柳生の門に入り新陰流を学んだとする説もある[2]。その後、大和郡山藩松平忠明に召し抱えられ、剣術指南役(剣術師範)250石に取り立てられた。
鍵屋の辻の決闘河合又五郎首洗池又右衛門が試し斬りをしたとの伝説がある柳生街道首切地蔵詳細は「鍵屋の辻の決闘」を参照

寛永7年(1630年)、岡山藩主・池田忠雄の寵臣で美男子として知られた渡辺内蔵助の息子・源太夫が、同僚の河合又五郎から懸想されてこれを拒んだために殺された。又五郎は江戸に逃げて旗本安藤家にかくまわれ、藩主・忠雄は又五郎の身柄引き渡しを求めたが拒まれたため、両者の間で緊張状態となった。江戸幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定する。

その間に忠雄が急死し、跡を継いだ池田光仲鳥取藩へ移封されたが、忠雄は又五郎を討つよう遺言していた。当時の慣習として兄が弟の(尊属が卑属の)仇を討つことは異例であったが、源太夫の兄・数馬は上意討ちの内意を含み、鳥取への国替えには加わらず脱藩し仇討ちの旅に出たという。剣術が未熟であった数馬は、寛永10年(1633年)ごろに義兄の又右衛門に助太刀を要請し、又右衛門は快諾して郡山藩を退身した。

寛永11年(1634年)11月7日、数馬と又右衛門は伊賀上野鍵屋の辻で河合又五郎を討ち、仇討ちの本懐を遂げた。数馬側は4人のうち1人死亡、3人負傷、河合又五郎側は11人のうち4人死亡、2人負傷、5人無傷(逃亡)だった。このときの又右衛門は「36人斬り」などともいわれるが、これは講談などによる誇張で、実際に斬ったのは同じ大和郡山藩の上席剣術師範・河合甚左衛門(又五郎の叔父)と尼崎藩槍術師範・桜井半兵衛の2人である。

又右衛門はまず、馬上の河合甚左衛門の足を薙ぎ、返す刀で斬って即死させた。桜井半兵衛には小者2人をかからせて得意の槍を渡さないようにさせ、刀の勝負で半兵衛に深手を負わせた(半兵衛は2日後に死亡)。渡辺数馬は河合又五郎一人に専心し、数時間に及ぶ死闘の末、ついに又五郎を討ち果たした。この斬り合いの最中、城下から駆けつけた伊賀藤堂家の竹本六太夫が「何事だっ」と声をかけると、半兵衛と対峙していた又右衛門は余裕綽々「おう、仇敵でござる」などと返事したという。その際に六太夫自身が動転していて、又右衛門の言葉を正確に把握していなかったそうだが、その度胸を激賞したという。

しかし、又右衛門が半兵衛を倒したとき、逆上した又五郎側の小者が又右衛門の背後から木刀で打ちかかってきた。又右衛門は腰に一撃を受けたともいわれ、さらに撃ちかかるところを振り向いて刀で受けたが、刀身が折れてしまった(この刀は伊賀守金道とも和泉守金道ともいわれる。どちらも慶長以降の作刀である新刀である)。


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