荒木一郎
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この項目では、俳優・歌手の荒木一郎について説明しています。法律学者の荒木一郎については「荒木一郎 (法律学者)」をご覧ください。

あらき いちろう
荒木 一郎
別名義水木京子
水木順子
ナポレオン
枯木華
すずきすずか
N.B
生年月日 (1944-01-08) 1944年1月8日(80歳)
職業俳優
シンガーソングライター
作曲家
音楽プロデューサー
実業家
小説家
マジック評論家
カードマジック研究家
活動期間1963年 - 1969年
1971年 -
配偶者元妻 榊ひろみ
著名な家族母 荒木道子(1989年死別)
父 菊池章一
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荒木 一郎(あらき いちろう、1944年1月8日 - )は、日本俳優シンガーソングライター音楽プロデューサー小説家、芸能事務所オーナー、マジック評論家、カードマジック研究家。ギター、キーボード、ドラムスの演奏ができるマルチプレイヤーでもある。

東京都出身。母親は女優荒木道子(1989年死別)。父親は文芸評論家の菊池章一。元妻は女優の榊ひろみ。その後、再婚している。水木京子(順子)、ナポレオン、枯木華、すずきすずか名義による作品もある。将棋はアマ四段の腕前。鰐淵晴子[1]梶芽衣子[2]安西マリア伊東ゆかり吉永小百合らにも楽曲を提供している。
略歴

9歳で文学座アトリエ公演に出演し、俳優としての初舞台を踏む。高校時代はモダン・ジャズに傾倒し、18歳から20歳まではバンドドラマーをしていた[3]。その頃から作詞と作曲を始める。同級生に佐藤信がいた[4]1962年切手コレクションで「第18回全日本切手展」グランプリ受賞。1963年青山学院高等部卒業。在学中の成績はほとんど「1」ばかりで、「1マイナス」もあったので本来卒業できないところだったが、教師の計らいで論文を提出して卒業を認定された[5]

文学座に在籍して俳優業を開始。『火事息子」』(1958年)『バス通り裏』(1960年 - 1963年)などに出演した。一方で音楽の才能が注目され、東海ラジオの番組『星に唄おう』のDJを務め、そのテーマ曲『空に星があるように』で、ビクター音楽産業から1966年に歌手デビュー。同年、『空に星があるように』で『第8回日本レコード大賞』新人賞を受賞。

1966年東映893愚連隊』で映画評論 初の新人男優賞を受賞。1966年、ファーストアルバム『ある若者の歌』で芸術祭文部大臣奨励賞を受賞。1967年、「いとしのマックス ?マックス・ア・ゴー・ゴー?」で第18回NHK紅白歌合戦に出場[6]。この時期には、一人GS的な評価をされた。

1970年から1971年まで『温泉こんにゃく芸者』など、何本もの映画に出演した[7]。1971年には8トラックカートリッジでの音楽作品を発表した。自身の事務所「現代企画室」には杉本美樹池玲子芹明香、潤ますみ、市川魔胡(松田英子)、有沢とも子(太田とも子、梶芽衣子の妹)らの女優が所属し、彼女らのマネージメントを行い、成功を収めた[8]。曲を提供した近江カヨは近江敏郎の娘である。1971年の『ぼくは君と一緒にロックランドにいるのだ』はアレン・ギンズバーグの詩にJ・A・シーザーが曲を付けた作品で高い評価を受けた。同曲はヒッピー学生運動の時代の雰囲気に合っていた。以後、沢田研二、原田芳雄ら他アーティストへの歌詞、楽曲提供やプロデュース、映画音楽担当、映像作品の音楽制作なども含め、幅広い活動を行っている。
俳優活動など

映画では、風と樹と空と(1964年、日活)に出演している。1972年の名作ドラマ『木枯らし紋次郎』では中村敦夫戸浦六宏と共演し、稲荷山の兄弟役で好演した[9]。『夜明けの刑事』、『悪魔のようなあいつ』にも出演した[10]。『たとえば、愛』(1979年、TBS)では、大原麗子扮するDJの上司、ディレクター役などを演じた。映画『鏡の中の野心』(1972年、松竹、原作:戸川昌子)では、ひし美ゆり子と共演した。『代理戦争』(1973年、東映)で出演が決まっていたが降板、代わりに抜擢された大部屋俳優川谷拓三が世に出ることができた。映画音楽のみでの参加も多い。『鉄砲玉の美学』(1973年、ATG配給)で頭脳警察を連れてきたのは荒木である。

1977年、当時30歳のクラブ歌手の女性から「レッスン中に性的ないたずらを受けた」と東京地裁に提訴され、130万円の損害賠償を請求される[11]。荒木は当初、非を認めて謝罪していたが、のちにこの女性と婚約者を警視庁北沢警察署に告訴し、「二人が暴力行為容疑で逮捕される事態」に発展した[11]

音楽活動では平尾昌晃と交流があり、その縁で平尾が音楽を担当した必殺シリーズに音楽で参加することになり、『必殺仕業人』『必殺からくり人』の主題歌を作詞した。また、『仕業人』では自ら挿入歌を歌っている。また、数年間桃井かおりのマネージャーを務め、アルバム8枚の制作に関わった。

自伝的小説『ありんこアフター・ダーク』、『シャワールームの女』(大和書房)や『雨の日にはプッシィ・ブルースを』(河出書房新社)といったハードボイルド・ミステリー小説を書いている。『ありんこアフター・ダーク』で直木賞候補になったと紹介されることもあるが[12]、そのような事実は存在しない。

1980年代後半からは活動を大幅に減らしているが、2001年には他アーティストとの共演によるアルバム『BEST FRIEND & BEST COLLECTION』を制作、2002年には青山劇場で20年ぶりのライブを行うなど、再び活動を始めている。2010年には、北沢タウンホールにて、8年ぶりとなるライブ『Ichiro Araki 3 Days』を行い、2011年には同ライブのDVDBOXをUP LINKから発売。

マジック評論家としては、1998年に設立されたマジックサークル「プリンあらモードMagic Club」の会長を務め、またマジックに関する著書も執筆している。

趣味の将棋はアマ四段の腕を持つ。伊藤果七段と組んで自宅に将棋道場(果会)をもっていた[13]
受賞歴

1966年

新人男優賞(映画『
893愚連隊』)

第8回日本レコード大賞 新人賞(シングル『空に星があるように』)

第21回 芸術祭 文部大臣奨励賞(アルバム『ある若者の歌』)


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