荒巻 淳現役時代(1956年)
基本情報
国籍 日本
出身地大分県大分市
生年月日 (1926-11-16) 1926年11月16日
没年月日 (1971-05-12) 1971年5月12日(44歳没)
身長
体重174 cm
61 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1950年
初出場1950年3月15日
最終出場1962年9月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
旧制大分県立大分商業学校
旧制大分経済専門学校
星野組
毎日オリオンズ
毎日大映オリオンズ (1950 - 1961)
阪急ブレーブス (1962)
コーチ歴
阪急ブレーブス (1962 - 1965)
ヤクルトアトムズ (1970 - 1971)
野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1985年
選出方法競技者表彰
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荒巻 淳(あらまき あつし、1926年11月16日 - 1971年5月12日)は、大分県大分市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。
本格派の左腕で、その速球から「火の玉投手」と呼ばれ、1985年に野球殿堂入り。 大分市堀川に鮮魚店の息子として生まれる。大分商業学校時代の1942年夏に文部省主催の全国中等学校野球大会へ出場するが、1回戦で仙台一中に2-3で敗れた。卒業後は大分経専に進学し、1946年の全国専門学校野球大会に出場。横浜経専を17奪三振を記録して破ると[1]、決勝戦では荒巻と並ぶ快速球で知られた山根俊英を擁する鳥取農専相手に23個の三振を奪って、優勝を果たし、一躍注目を浴びた。その後は社会人野球の強豪・星野組に入部し、1949年の都市対抗に出場。エースとしてチームを優勝に導き、橋戸賞を受賞する。その頃から球の速さは抜群で、当時メジャーリーグ随一の快速球投手だったボブ・フェラーにあやかり、和製火の玉投手と呼ばれた。 この球威に1948年頃からプロ野球チームの争奪戦が始まり、巨人・大阪・阪急・大映などが様々な手段で星野組に勧誘を試みる[2]。巨人は別府での練習時に星野組社長の岡本忠夫が経営する日名子旅館を宿舎に利用、阪急は浜崎真二監督が自ら別府に赴き、大映は北九州地区映画館収益の分配を約束したりした[2]。大井廣介の著書『タイガース史』(ベースボール・マガジン社、1958年)や松木謙治郎の著書には一度阪神と契約を結んだという記述があり、当時阪神に在籍した若林忠志の次男も若林からの伝聞として阪神が荒巻と契約していたと証言している[2]。若林の次男や松木は、若林が荒巻を勧誘したと述べている[2]。 1949年の夏以降、プロ野球参入を目指す毎日新聞社が星野組の選手に勧誘をかける[3]。西本幸雄選手兼任監督が交渉役になったが、荒巻だけは星野組社長の岡本が後見人を務め、契約も岡本が当たった[3]。岡本は次女を荒巻と結婚させていた[3]。最終的に荒巻は毎日オリオンズに入団した。松木は、プロ野球再編問題で荒巻が私淑する若林が阪神から毎日に移ったことと、星野組を主体に毎日が結成されたことで、荒巻も毎日に入ったとしている[2]。
経歴