荒川_(関東)
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荒川
東京湾に注ぐ荒川
水系一級水系 荒川
種別一級河川
延長173.0[1] km
平均流量30 m³/s
(寄居観測所 2002年)
流域面積2,940[1] km²
水源甲武信ヶ岳
水源の標高2,475 m
河口・合流先東京湾
流域埼玉県東京都


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荒川(あらかわ)は、埼玉県東京都を流れ、東京湾に注ぐ河川一級水系である荒川水系の本流で一級河川に指定されている。水系として、流路延長173 km流域面積2,940 km2。川幅(両岸の堤防間の距離)は御成橋(埼玉県鴻巣市吉見町)付近で2,537 m日本最大[2][3]江戸時代に行われた河川改修である荒川西遷事業(荒川の瀬替えとも[4])により流れを変えられた歴史を持つ。
概要

埼玉県、山梨県長野県の三県がを接する甲武信ヶ岳(こぶしがたけ、奥秩父)に源を発し[5]秩父山地を集めながら秩父盆地まで東に流れる。秩父盆地から長瀞渓谷まで北に、その先は東に流れて大里郡寄居町関東平野に出る。熊谷市で南南東に向きを変え、川越市入間川を併せる。戸田市から再び東流、埼玉・東京の都県境を流れ、北区の新岩淵水門隅田川を分ける。その後、足立区で向きを変えて再び南流し、江東区江戸川区の区境で東京湾に注ぐ。

源流域を抜けた先から熊谷市までは国道140号及び秩父鉄道秩父本線が、熊谷市から埼玉・東京の県境付近までは国道17号中山道)・首都高大宮線及びJR東日本高崎線埼京線(・東北新幹線)が、県境から河口までは首都高中央環状線がほぼ並走しており、いずれも重要な幹線となっている。
源流点の定義

この川の源流点は、2つの説がある。一つは、秩父湖の少し上流の滝川入川合流地点。もう一つは、上記の様に甲武信ヶ岳の埼玉県側の山腹、標高2,475 mの所にある「真の沢」が源流点という説である。荒川源流の石碑は入川がそれぞれのに分かれる地点にある。
一級河川としての荒川

起点は入沢と赤沢の合流点で、ここに「一級河川荒川起点の碑」がある[6]。終点は中川との合流点で、ここに「河口から0 km」のキロポストがある[7]。元々は荒川の河口があった場所であり、周辺の埋め立ての進行に伴い荒川の河川区域が沖合いに向かって伸びて行った[7]。この入沢と赤沢の合流点から中川との合流点までの流路延長173 kmが、一級河川としての荒川である。一方、河川としての流れは「河口」からもしばらく続き、特に右岸は5 kmほど下って若洲海浜公園の突端に至る[7]
案内標識のローマ字(英語)表記における荒川

国土交通省道路局ではArakawa riverとしており二重表現となっている。これは「地名などの固有名詞ヘボン式ローマ字で、山や川などの普通名詞は英語で表示する。ただし、慣用上固有名詞の一部として切り離せないものについては個別に検討する。」という表記法による。
語源

字の通り、過去に幾度となく荒れ、地域に水害をもたらしたことから、「荒川」と呼ばれるようになった[8]
水位

荒川水系では特殊基準面として東京都中央区新川2丁目地先に設置された霊岸島量水標の最低潮位を基準としている(A.P.(Arakawa Peil))[9]

道の駅大滝温泉付近より

埼玉県長瀞町矢那瀬地区より上流方向を望む

正喜橋より下流方向を望む(埼玉県寄居町

埼玉県桶川市樋詰橋付近より上流方向を望む

さいたま市を流れる荒川

埼玉県戸田市川岸1丁目より川口市方面を望む

扇大橋から江北橋方面を望む

並流する中川(手前)と荒川(奥)。タワーホール船堀から撮影。

東京都江東区の0.00 km標識から、さらに下流を望む。

羽田空港の奥(北)に中央防波堤外側埋立地と荒川河口を望む(定期航空機より)。

歴史

荒川は古くから利根川の支流で、関東平野に出た後、扇状地を作り、扇端の東縁(現在の埼玉県熊谷市?行田市)で利根川と合流していた[10]。利根川の中下流(荒川との合流後)は5000年前頃までは現在の荒川の流路を通り東京湾へ注いだが、3000年前頃からは、現在の埼玉県加須市方向へ向った後、中川低地[11]へ入り、南流して東京湾(江戸湾)へ注ぐようになった。利根川と荒川は河道が安定せず、また次第に並行した流路となり両者の合流点は下流へ移動した。荒川の名も暴れ川を意味し、有史以来、下流域の開発も遅れていた。

荒川本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した[12]江戸時代初期頃は荒川は現在の元荒川の川筋を通り、現在の埼玉県越谷市吉川市付近で利根川と合流した。
利根川東遷事業詳細は「利根川東遷事業」を参照

1629年寛永6年)に関東郡代伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、現在の元荒川を流下していた河道を、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるように瀬替えを行なった[注釈 1][注釈 2]。なお現在、元の河道は、締め切られた熊谷市久下で地下水湧水(現在は人工揚水)を源流とし、吉川市で中川と合流する元荒川となっている。

付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を流下し東京湾へ注ぐこととなった。この部分は流速が遅く、台風で大が降るとしばしば溢れて江戸下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった[13]洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた[14]
荒川放水路

荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年大正2年)から1930年昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。
計画に至る過程

1910年(明治43年)8月5日頃から関東地方では長雨が続き、11日房総半島をかすめて太平洋上へ抜けた台風と、14日に山梨県甲府市から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現・隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほか、右岸でも中条堤の破堤によって利根川、荒川の氾濫流は埼玉県を縦断。死者202人、行方不明39人、家屋全壊610戸、家屋流出928戸に及ぶ甚大な被害を引き起こした。また、利根川や多摩川水系も含んだ東京府全体の被害総数は、死者41人、行方不明7人、家屋全壊88戸、家屋流出82戸であった[15]。長年豪雨災害によって被害を受けていたこともあり、翌1911年(明治44年)、政府は根本的な首都の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先して荒川放水路の建設を決定する。

内務省によって調査、設計の準備を進め、土木技官青山士らを責任者に用地買収の済んだ箇所から逐次工事に着手したのは1913年大正2年)のことである。

この用地買収は実に1000ヘクタール、1300戸に及ぶ。これにより、南葛飾郡大木村平井村船堀村の3村が地方自治体としては廃止となり、周辺の町村へ編入されていった。
難工事荒川放水路完成時の青山士らによる記念碑

結局、この工事は当初の10年という予定期間を大幅に超え、関連工事が完全に完了するまで17年間という歳月を要し、3,200万あまりの工事費を費やした。これは最初に計上された総予算1,200万円の実に2.5に及んだ。さらに総数300万人以上を工事に動員し、出水や土砂崩れなど多くの災害により、30名近くの犠牲者も出した。

工事の大半が手作業であり、蒸気掘削機やトロッコ浚渫船も実用化されていたものの、油圧ショベルブルドーザーダンプカーの様な重機は無かった。また工事中も幾度も台風に襲われ、中でも1917年(大正6年)9月30日の台風では、記録的な高潮に見舞われ、工事用機械船舶を流出する他、関東大震災では各地の工事中の堤防への亀裂、完成したばかりの橋梁の崩落など枚挙に暇がない。さらに第一次世界大戦に伴う不況・インフレーションも、難工事に拍車をかけた。
完成後

1924年(大正13年)の岩淵水門完成により放水路への注水が開始され、浚渫工事など関連作業が完了したのは1930年(昭和5年)のことである。以後東京は洪水に見舞われることは無くなった。その後も荒川放水路により分断された中川の付け替えや、江戸川放水路の掘削が行われ、ほぼ東京周辺の流路が完成することとなる。

1938年(昭和13年)9月1日、台風接近と高潮が重なり荒川放水路を挟んで城東区向島区葛飾区江戸川区一帯が冠水。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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