荒川 博現役時代(1955年撮影)
基本情報
国籍 日本
出身地東京府東京市浅草区(現・東京都台東区浅草)
生年月日 (1930-08-06) 1930年8月6日
没年月日 (2016-12-04) 2016年12月4日(86歳没)
身長
体重163 cm
70 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1953年
初出場1953年3月22日
最終出場1961年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
早稲田実業学校高等部
早稲田大学
毎日オリオンズ
毎日大映オリオンズ (1953 - 1961)
監督・コーチ歴
読売ジャイアンツ (1962 - 1970)
ヤクルトアトムズ
ヤクルトスワローズ (1973 - 1976)
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荒川 博(あらかわ ひろし、1930年8月6日 - 2016年12月4日)は、東京都台東区浅草出身のプロ野球選手(外野手)、コーチ・監督、解説者。
現役引退後は読売ジャイアンツの打撃コーチに就任し、王貞治に「一本足打法」を指導した人物として知られている[1]。
経歴王貞治と荒川博。荒川の自宅にて。
実家は八百屋。早稲田実業ではエースとして活躍する。1948年には、春の選抜へ出場、1回戦で神戸二中の河野博(のち阪神)と投げ合うが1-2で惜敗し[2]、夏の甲子園都予選では準決勝で明治高に完封負けを喫した。
1949年に早稲田大学商学部へ進学し、東京六大学野球リーグでは在学中に5度の優勝を経験[3]。リーグ通算81試合に出場し、289打数81安打・打率.280・1本塁打・40打点の記録を残した。大学同期に岩本尭・沼澤康一郎、1年下に広岡達朗・小森光生がいる。
1953年3月22日の大映戦(後楽園)に2番・右翼手で初出場を果たすと、同31日の阪急戦(後楽園)で天保義夫から初安打・初盗塁を記録。4月25日の大映戦(福島信夫ヶ丘)では初打点を含む2打点を挙げたほか、8月5日の南海戦(大阪)では中原宏から初本塁打を放ち、打率.315で周囲の期待に応える。同年のオールスターにも選出され、全3戦に7番・右翼手で先発出場。1954年からはレギュラーに定着し、規定打席(18位、打率.270)にも到達。自己最多の5本塁打を記録するが、5本中2本は近鉄から放った。この年の1本目は6月5日の東映戦(後楽園)で桑名重治から放った自身初の満塁本塁打であった。1955年には登録名を「博久」に改名。
1956年には自己最多の122試合に出場するが、この年は本塁打を1本も打てなかった。
1957年に登録名を本名に戻すと、8月30日の南海戦(大阪)に若生智男の代打で木村保から2年ぶりの本塁打を記録。
1958年には4本塁打を全て近鉄戦で放ち、4本中3本は日生で放ったものである。5月22日には山下登から4年ぶり自身2度目で最後の満塁本塁打を放っており、2日前の同20日にも山下から放っている。
1961年にチームから放出される形で退団し、31歳の若さで現役を引退した[4]。荒川の結婚式でその仲人を務めた別当薫が、「荒川は選手として花開く男ですが、辞めてもコーチとして活躍してくれるはずです。安心してください」と、結婚式の挨拶で述べた[5]。別当の挨拶にあるように後に指導者として大きな功績を挙げる荒川だったが、現役中からチームメイトで高校の後輩でもあった榎本喜八を指導したほか、少年時代の王貞治を見出して母校・早実への進学を薦めた。
1961年12月20日に巨人の一軍打撃コーチに就任し、川上哲治監督の下で指導を開始する。荒川の早大の後輩でもあった広岡が犬猿の仲である川上に頭を下げてくれたことで、荒川は毎日OBでありながら就任することができたが、川上が荒川を雇った理由は「その若さ(31歳)で、榎本(喜八)という素晴らしい打者を育て上げた」という一点のみであった[6] [7] [8]。就任後は「荒川道場」と呼ばれる厳しい指導で、選手の私生活も徹底的に管理した。特に王へ「一本足打法」を指導したことで知られ[9]、王以外には土井正三・黒江透修・高田繁らを育成し、巨人の第3次黄金時代を支えた。後に一本足打法は王と同じ左投左打である駒田徳広にも伝授したが、王ほどの効果は無かった[10]。
1967年には、ある日の中日戦で球審の円城寺満に対して判定を不服とし、柴田勲と共に小突き回して判定を変えさせたが退場処分を受けた。試合後に円城寺球審は審判員引退を表明したが、その光景は後に幾度となく審判との暴力沙汰を起こす金田正一をして「長年、野球一筋でやって来られた円城寺さんが殴られるのを見て、哀しくて見ていられなかった」とコメントするほどであった。
1968年の阪神戦では、阪神の先発・ジーン・バッキーが王へ投じた危険球に端を発する乱闘で荒川もバッキーに殴られて4針縫う重傷を負い、殴ったバッキーも指を骨折した(バッキー荒川事件)。バッキーはこの怪我が致命傷となって精彩を欠き、1969年オフに現役引退を表明している。なお、バッキーは1985年頃に来日した際に荒川と再会し仲良く握手していた。その後は養子の荒川尭がプロ入りしたのを期に、公私のけじめをつけるため1970年11月6日に勇退した。巨人退団後はフジテレビの「○曜ナイター/野球中継」・文化放送「ジャイアンツナイター」解説者(1971年 - 1972年)。