荒城二郎
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荒城二郎

荒城 二郎(あらき じろう、1880年明治13年)11月6日 - 1952年昭和27年)6月3日)は、北海道出身[1](本籍は東京都[1])の海軍軍人中将)。兄の卓爾は陸軍少将。妹は井上達三の妻[2]で、井上成美とは縁戚関係にあった。目次

1 経歴

2 栄典

3 出典・脚注

4 参考文献

経歴

徳島藩洲本城城代稲田家家臣・陸軍屯田兵少佐・荒城重雄[3]の二男として北海道札幌市[4]に生まれる。小学校卒業後上京し、攻玉社を経て海軍兵学校29期日露戦争に「香港丸」「朝霧」乗組として出征。「扶桑」水雷長・「村雨駆逐艦長などを経て、1913年大正2年)海軍大学校甲種11期卒。同年から1916年(大正5年)まで英領シンガポール駐在武官として出張[4]1917年(大正6年)第7駆逐隊司令1920年(大正9年)大佐1921年(大正10年)?1923年(大正12年)在ドイツ駐在武官。

1923年(大正12年)艦政本部第3部長。1925年(大正14年)少将となり、同年第2潜水戦隊司令官1926年(大正15年)永野修身の後任として、第一遣外艦隊司令官に就任。当時揚子江流域では、?介石国民政府軍北伐に向けて不穏な動きを見せていたが、これに対し荒城は、?と敵対関係にあった北洋軍閥直隷派の首領・呉佩孚と提携する一方、唐生智陳銘枢といった国民政府軍側の要人とも粘り強く折衝し、同流域における日本側権益の保護・日本人居留民の安全のために尽くした[4]。また、1927年昭和2年)の南京事件漢口事件においても、海軍側の現地責任者として、冷静に難局に対処した。同年艦政本部第2部長、翌1928年(昭和3年)第5部長。艦政本部では一貫して潜水艦を担当するなど、当時の海軍内では潜水艦通として知られていた[5]

1930年(昭和5年)横須賀工廠長、同年中将1932年(昭和7年)予備役。その後日本製鐵設立役員(取締役)・北樺太石油社長などを務めた。

米内光政とは同期であると同時に無二の親友であり、米内と交わした書簡の中には誰にも語ることがなかった米内の本音を知ることが出来る。その書簡の一部は『米内光政の手紙』(高田万亀子 著)で公表されている。
栄典

1903年(明治36年)4月10日 - 正八位[6]

1904年(明治37年)8月30日 - 従七位[7]

1906年(明治39年)11月30日 - 正七位[8]

1911年(明治44年)12月20日 - 従六位[9]

1921年(大正10年)1月20日 - 従五位[10]

1930年(昭和5年)12月27日 - 従四位[11]

1932年(昭和7年)12月27日 - 正四位[12]

出典・脚注^ a b 『日本海軍史 第9巻 将官履歴』
^ 『大衆人事録 東京篇』「井上達三」
^ 『人事興信録 第13版 上』「荒城二郎」。『日本海軍史』では父の名前は三千雄とある
^ a b c 『続対支回顧録 下巻 列傳』「荒城二郎」
^ 『米内光政の手紙』
^ 『官報』第5929号「叙任及辞令」1903年4月11日。
^ 『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日。
^ 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。
^ 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1921年1月21日。
^ 『官報』第1212号「叙任及辞令」1931年1月16日。
^ 『官報』第1802号、「叙任及辞令」1933年01月04日。

参考文献

外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』原書房

帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』1939年

人事興信所編『人事興信録 第13版 上』1941年

東亜同文会編『続対支回顧録 下巻 列傳』明治百年史叢書、1973年(復刻版、原本は1941年刊)

海軍歴史保存会『日本海軍史 第9巻 将官履歴 上』1995年

高田万亀子著『米内光政の手紙』原書房 1993年


更新日時:2020年9月15日(火)13:49
取得日時:2020/09/30 19:24


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