荏柄天神社
[Wikipedia|▼Menu]

荏柄天神社


拝殿
所在地神奈川県鎌倉市二階堂74
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度19分33.1秒 東経139度33分51.5秒 / 北緯35.325861度 東経139.564306度 / 35.325861; 139.564306 (荏柄天神社)座標: 北緯35度19分33.1秒 東経139度33分51.5秒 / 北緯35.325861度 東経139.564306度 / 35.325861; 139.564306 (荏柄天神社)
主祭神菅原道真
社格等旧村社
創建長治元年(1104年
本殿の様式三間社流造
テンプレートを表示
荏柄天神社 左が重要文化財の本殿絵筆塚

荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある菅原道真を祀る神社鶴岡八幡宮の東方に位置し、鎌倉と神奈川県横浜市金沢区六浦を結ぶ金沢街道に参道が接続し、参道入口から300mほど入った小台地にある。

鎌倉時代初期より鎌倉幕府との関わりが記録に見え[1]武家政権の守護神として、鶴岡八幡宮とともに信仰された神社である[2]。関東を中心に茨城県千葉県埼玉県に数社の分祠、愛知県に2社、広島県に1社の分祠がある[3]。境内から南西約200mに、源頼朝が鎌倉に入り邸を構え幕府を開いたとされる大倉御所があり、谷を挟さんで約300m西側の丘陵には史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)がある[3]
概略

社伝によれば、長治元年(1104年)、菅原道真勧請し創立されたと伝わり、古くは荏柄山天満宮とも称される[3]。創祀については、社蔵の江戸時代の書「相州鎌倉荏柄山天満宮略縁起」によると、長治元年(1104年)8月25日に、空が突如暗くなり雷雨と共に黒い束帯姿の天神画像が天降り、里人がこの神験をおそれ降臨の地に社殿を建て、その画像を納め崇拝し、銀杏の木を植え神木としたとあり、境内には今も大銀杏がある[3]天保12年(1841年)の『新編相模国風土記稿』には、鎌倉幕府の鬼門鎮護のために祀られたとの社伝が記されている[4]。社号の「荏柄」は、正倉院文書の天平7年(735年)の『相模国封戸租交易帳』や『倭名類聚抄』の相模国鎌倉郡にある「荏草郷(えがや)」が転じて「エガラ」となり、「荏柄」と表記されたものと考えられている[3]。境内は、周囲よりも7m程高く、東西約55m、南北約50mの削平地に社殿が設けられ、社殿の後方は人工的に切り落とした急な崖である。社殿の両側は袖状の尾根が張り出し、鶴岡八幡宮の上宮敷地造成との共通性がみられる[3]

吾妻鏡』によれば1180年治承4年)に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる大倉御所が置かれたが、当社は幕府の鬼門に位置するため、鬼門の守護神として崇敬し、社殿を新たに造立[3][5]。以後、歴代の将軍家を始め、鎌倉幕府の崇敬社となり、鎌倉時代初期より幕府との関わりが記録に見え『吾妻鏡』にはしばしば当社の記事がみられる[3]。『吾妻鏡』での初出は、建仁2年(1202年)9月11日条で、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家大江広元を荏柄社祭の奉幣使として当社に派遣し、御祭神・菅原道真の御神忌三百年祭を執り行ったとある[3][6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:32 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef